1967年(昭和42年)に公開された日本映画。製作・配給は東宝。白黒、シネマスコープ。
東宝創立35周年記念作品のひとつとして映画化された。東宝内部では、ヒットさせることよりも製作する意義を重視する声が多かったという[9]。本作をきっかけとして「東宝8.15シリーズ」として1972年(昭和47年)の『海軍特別年少兵』まで6本の映画が製作された。
「日本のいちばん長い日」(1967年)
「連合艦隊司令長官 山本五十六」(1968年)
「日本海大海戦」(1969年)
「激動の昭和史 軍閥」(1970年)
「激動の昭和史 沖縄決戦」(1971年)
「海軍特別年少兵」(1972年)
監督には小林正樹が内定していたが、彼はプロデューサーの藤本真澄と折り合いが悪く、脚本の橋本忍の推薦もあり、『肉弾』の脚本に取り組んでいた岡本が監督に起用された[9][10]。岡本は本作の企画が停滞していた時期に藤本と会った際、『殺人狂時代』がお蔵入りにされたことへの不満と、本作の製作を進めることを述べていた[9]。
この映画化に伴い、半藤には映画化権として80万円、後にヒット記念として東宝から追加で40万円が支払われた[11]。
岡本は撮影に際しては可能な限り事実に基づいた描写を行い、特に本作の最後に「この戦争で300万人が死んだ」という文言を加えることに固執したという[9]。公開後は賛否両論となり、批判的な意見としては「戦争指導者を英雄視しているのでは?」というものが多かったという[9]。
脚本の橋本忍は、「(スタッフ)全員がはずれると思っていたのに大当たりを取った」唯一の映画が本作であると証言している[12]。その理由について橋本は、戦後すぐでは受けなかったが、「前が見えない」時期に振り返ろうとしたからではないかと述べている[12]。村井淳志はこれに加えて、(本作以前の終戦映画である『黎明八月十五日』や『日本敗れず』と比較して)前記の竹下正彦による『大本営機密日誌』をベースに、青年将校を「論理一貫性を持った真摯な存在として描写した」ことに大きな理由をみている[12]。
昭和天皇はこの映画を公開年の12月29日に家族とともに鑑賞した[13]。
東宝創立35周年記念作品のひとつとして映画化された。東宝内部では、ヒットさせることよりも製作する意義を重視する声が多かったという[9]。本作をきっかけとして「東宝8.15シリーズ」として1972年(昭和47年)の『海軍特別年少兵』まで6本の映画が製作された。
「日本のいちばん長い日」(1967年)
「連合艦隊司令長官 山本五十六」(1968年)
「日本海大海戦」(1969年)
「激動の昭和史 軍閥」(1970年)
「激動の昭和史 沖縄決戦」(1971年)
「海軍特別年少兵」(1972年)
監督には小林正樹が内定していたが、彼はプロデューサーの藤本真澄と折り合いが悪く、脚本の橋本忍の推薦もあり、『肉弾』の脚本に取り組んでいた岡本が監督に起用された[9][10]。岡本は本作の企画が停滞していた時期に藤本と会った際、『殺人狂時代』がお蔵入りにされたことへの不満と、本作の製作を進めることを述べていた[9]。
この映画化に伴い、半藤には映画化権として80万円、後にヒット記念として東宝から追加で40万円が支払われた[11]。
岡本は撮影に際しては可能な限り事実に基づいた描写を行い、特に本作の最後に「この戦争で300万人が死んだ」という文言を加えることに固執したという[9]。公開後は賛否両論となり、批判的な意見としては「戦争指導者を英雄視しているのでは?」というものが多かったという[9]。
脚本の橋本忍は、「(スタッフ)全員がはずれると思っていたのに大当たりを取った」唯一の映画が本作であると証言している[12]。その理由について橋本は、戦後すぐでは受けなかったが、「前が見えない」時期に振り返ろうとしたからではないかと述べている[12]。村井淳志はこれに加えて、(本作以前の終戦映画である『黎明八月十五日』や『日本敗れず』と比較して)前記の竹下正彦による『大本営機密日誌』をベースに、青年将校を「論理一貫性を持った真摯な存在として描写した」ことに大きな理由をみている[12]。
昭和天皇はこの映画を公開年の12月29日に家族とともに鑑賞した[13]。
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