「焼き場に立つ少年」1枚の写真が注目を集めている。63年前、被爆した長崎で撮影されたもので、亡くなった幼い弟の亡きがらを背負い火葬場の前に立つ「焼き場に立つ少年」と題された写真だ。
撮影したのはアメリカ人カメラマン、ジョー・オダネル。去年8月9日、亡くなった。占領軍として原爆投下後の長崎に入り、その破壊力を記録するため写真を撮影する一方で、軍に隠れ内密に自分のカメラでおよそ30枚の写真を記録した。帰国後、被爆者の記憶に悩まされ、悲劇を忘れ去ろうと全てのネガを自宅屋根裏部屋のトランクの中に閉じこめ、43年間封印してしまう。しかし晩年になって原爆の悲劇を訴え母国アメリカの告発に踏み切っていく。原爆投下を信じる周囲から非難の声を浴びながら、85歳の生涯を閉じた。
なぜオダネルは、軍の規則に違反して写真を撮影したのか。
なぜその写真を長年隠し、晩年になってトランクを開け母国を告発したのか。
その足跡を追う息子が、遺品の中に残された録音テープを発見した。そこには写真に秘められた過去と、真実を伝えざるを得なかったオダネルの思いが告白されていた。
「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。…10才くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶ紐をたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。…しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやって来たという強い意志が感じられました。しかも彼は裸足です。少年は焼き場の渕まで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。…少年は焼き場の渕に、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクをした男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶ紐を解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気づいたのです。男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それから眩いほどの炎がさっと舞い上がりました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血が滲んでいるのに気がついたのは。少年があまりにきつく噛みしめている為、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりと踵(きびす)を返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。背筋が凍るような光景でした。」
「これほど残酷な人災があるだろうか。これは人類に対する重罪と言える」(ジョー・オダネル)
オダネル氏が所属していた米海兵隊は一九四五年九月、佐世保に上陸。同氏は福岡、広島、長崎などを回り、戦争の生々しい傷跡をカメラに収めた。来崎は十月以降とみられ、廃虚と化した爆心地付近で撮影した。
倒壊した浦上天主堂の廃虚に立ったオダネル氏は「神様、わたしたちは何とひどいことをしたのか」と悔恨の涙を流す。帰国後は「忘れてしまいたい」と四十三年間にわたり、未現像フィルムをトランクの中に封印していた。しかし九〇年、「核兵器の恐怖を伝えなければ」との思いから、ついに写真を公開した。
今回展示するのは、オダネル氏の妻・坂井貴美子さんが長崎市に寄贈する四十六点のうち、撮影場所が同市内とほぼ特定できる写真だ。
中でも注目されるのは、オダネル氏の著書「トランクの中の日本」(小学館)にも未収録の「廃墟の兄弟」。辺り一面のがれきの中、傷付いた幼子を背負う少年がたたずむ。悲しみと不安の入り交じった目が胸を打つ。
長崎平和推進協会写真資料調査部会の深堀好敏部会長(79)は「当時の人物を撮影した写真は少なく、『廃墟の兄弟』は特に貴重と言える。その他の風景写真も被災状況をはっきり実感できる資料だ」と話している。
「ジョー オダネル写真集」
Amazon.co.jp: トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録: Joe O’Donnell,
http://amzn.to/110BCSG
撮影したのはアメリカ人カメラマン、ジョー・オダネル。去年8月9日、亡くなった。占領軍として原爆投下後の長崎に入り、その破壊力を記録するため写真を撮影する一方で、軍に隠れ内密に自分のカメラでおよそ30枚の写真を記録した。帰国後、被爆者の記憶に悩まされ、悲劇を忘れ去ろうと全てのネガを自宅屋根裏部屋のトランクの中に閉じこめ、43年間封印してしまう。しかし晩年になって原爆の悲劇を訴え母国アメリカの告発に踏み切っていく。原爆投下を信じる周囲から非難の声を浴びながら、85歳の生涯を閉じた。
なぜオダネルは、軍の規則に違反して写真を撮影したのか。
なぜその写真を長年隠し、晩年になってトランクを開け母国を告発したのか。
その足跡を追う息子が、遺品の中に残された録音テープを発見した。そこには写真に秘められた過去と、真実を伝えざるを得なかったオダネルの思いが告白されていた。
「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。…10才くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶ紐をたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。…しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやって来たという強い意志が感じられました。しかも彼は裸足です。少年は焼き場の渕まで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。…少年は焼き場の渕に、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクをした男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶ紐を解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気づいたのです。男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それから眩いほどの炎がさっと舞い上がりました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血が滲んでいるのに気がついたのは。少年があまりにきつく噛みしめている為、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりと踵(きびす)を返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。背筋が凍るような光景でした。」
「これほど残酷な人災があるだろうか。これは人類に対する重罪と言える」(ジョー・オダネル)
オダネル氏が所属していた米海兵隊は一九四五年九月、佐世保に上陸。同氏は福岡、広島、長崎などを回り、戦争の生々しい傷跡をカメラに収めた。来崎は十月以降とみられ、廃虚と化した爆心地付近で撮影した。
倒壊した浦上天主堂の廃虚に立ったオダネル氏は「神様、わたしたちは何とひどいことをしたのか」と悔恨の涙を流す。帰国後は「忘れてしまいたい」と四十三年間にわたり、未現像フィルムをトランクの中に封印していた。しかし九〇年、「核兵器の恐怖を伝えなければ」との思いから、ついに写真を公開した。
今回展示するのは、オダネル氏の妻・坂井貴美子さんが長崎市に寄贈する四十六点のうち、撮影場所が同市内とほぼ特定できる写真だ。
中でも注目されるのは、オダネル氏の著書「トランクの中の日本」(小学館)にも未収録の「廃墟の兄弟」。辺り一面のがれきの中、傷付いた幼子を背負う少年がたたずむ。悲しみと不安の入り交じった目が胸を打つ。
長崎平和推進協会写真資料調査部会の深堀好敏部会長(79)は「当時の人物を撮影した写真は少なく、『廃墟の兄弟』は特に貴重と言える。その他の風景写真も被災状況をはっきり実感できる資料だ」と話している。
「ジョー オダネル写真集」
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