• 5 年前
https://www.nhk.or.jp/osaka-blog/historia/417179.html
 特攻隊の一人だった青年は、あらがいようのない状況の中、国家のために命をかける決断をしました。もし自分がその状況に立たされたら…。当事者として直面した時、みなさんの心には、どんな言葉が浮かんでくるでしょうか。今回、特攻隊・上原良司の手記を朗読した岩田剛典さんは、繊細に、しかし芯が通った表現で、若者の揺れ動く心情を伝えてくださいました。

 特攻隊・上原良司は、「我らは国家のため 喜んで戦地に向かう」と陸軍のパイロットを目指しながら、軍隊内で理不尽な仕打ち、暴力を受け「特攻」という逃れられない任務につくことになります。極限に立たされた人間しか分からない感情や言葉に、私は、胸が締め付けられました。「決死奉公、悠久の大義に生きるのみである。」と迫られた中、上原は死と生について苦悩しながら自問自答。やがて、「悠久の大義に生きるとかそんなことはどうでも良い。あくまで日本を愛する。祖国のために 独立自由のため、闘うのだ。」と、自分を奮い立たせたのです。

 以前、元特攻隊員の方にお話を伺う機会がありました。なぜ特攻に志願したのか。その方は「身近な者が安泰に暮らせるのなら、自分がまず犠牲になろうと。」「突っ込んでいく時なんかも、いつもの調子で笑顔で出ていきますから。特攻隊員一人一人が色々な気持ちをもって飛んでいったと思う。」とおっしゃっていました。特攻のことを知る人が少なくなっていく中、一年でも長くこの話を伝えていきたいと語っていたその方は、この番組の放送直前に、お亡くなりになりました。太平洋戦争を伝え続けてほしい。大事なバトンが、今、自分の手に渡されたように感じます。

 最後に、出撃前夜の上原の言葉を記します。

「強いて考うれば、自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。」「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後ろ姿はさびしいですが、心中満足で一杯です。言いたい事を言いたいだけ言いました無礼をお許しください。ではこの辺で。」

1945(昭和20)年5月11日早朝。上原は、鹿児島の知覧から、沖縄へ向け離陸しました。22歳でした。上原良司の最期を「悲劇」や「運命」という、美化された言葉で終わらせてはならないと、私は思います。多くの若者を、このような極限状態に追い込んだのは何なのか。二度と起こさないためには、何ができるのか。歴史番組に携わる一人として、これからも考え続け、向き合い続け、次の世代に届くよう発信していきたいと思います。

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