普天間基地移設で揺れる沖縄。戦後、アメリカ軍は、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる土地強制収用によって基地を建設していった。これに抗議の声を上げたのが、農地を奪われた伊江島の人々。阿波根昌鴻が中心になった闘いは、やがて「島ぐるみ闘争」へと発展した。しかし、沖縄返還後も基地は固定化され、過重な負担に苦しむことになる。普天間基地周辺と伊江島の人々の証言をもとに沖縄の戦後史を描く。
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ニューストランスクリプション
00:00:00アメリカ軍の新型輸送機オスプレイが配備された沖縄普天間基地
00:00:15人口およそ9万人の町の中心にあります
00:00:21返還が約束されてからすでに17年
00:00:25住民は危険にさらされたままです
00:00:30普天間基地が建設された土地にはかつては静かな農村の営みがありました
00:00:38今、住民の基地内への立ち入りが許可されるのは年に一度の墓参りだけです
00:00:50軍の中だから役所行ってそれを申請しないといかないんですよね
00:00:57これは向こうのゲートで厳しいんですよ
00:01:03車のチェックとかですね
00:01:06なぜ沖縄にアメリカ軍基地が作られたのでしょうか
00:01:12なぜ今も存続しているのでしょうか
00:01:16沖縄戦を生き延びた人々には日本本土とは全く異なる戦後がありました
00:01:25住み慣れた村に建設されていくアメリカ軍の基地
00:01:30その光景は人々の心に今も深く刻み込まれています
00:01:36アメリカ軍の土地摂取に立ち向かった島があります
00:01:53家島です
00:01:55普天間基地からオスプレイが飛来する家島
00:02:04土地を守る戦いが始まったのは1955年のことです
00:02:13島民の前に現れたのは完全武装のアメリカ軍300人でした
00:02:19土地を使用させるかさせないか
00:02:23農家やすかこれ以外に答えないと
00:02:27これ以外に答えたらね
00:02:29拳銃で落ちてこらと言ってね
00:02:30込み込みに拳銃を持って構えてたんですよ
00:02:34なんでこの畑を取るのと言って
00:02:37こんなにおじいはもう言っているんですよ
00:02:41やっぱりこの土地を取らさないために
00:02:46おじいは守っているんですよ
00:02:48家島の戦いは沖縄全土に広がっていきました
00:02:54アメリカ軍への怒りが爆発した島ぐるみ闘争です
00:02:59しかしその後も基地は存続しました
00:03:04今も沖縄には在日アメリカ軍専用施設の
00:03:107割以上が集中しています
00:03:12僕の故郷があんなになってしまったのかと
00:03:19もうねもう帰りに帰らない
00:03:23余にしてないんです
00:03:24一日も返してもらいたい
00:03:28一日も早く元の生活をさせてもらいたい
00:03:33その我々が生活の根拠であったものをね
00:03:39元に戻してもらいたい
00:03:41地方から見る日本の戦後
00:03:46シリーズ第1回は沖縄です
00:03:50基地問題はどのように生まれたのでしょうか
00:03:54そして人々はどう向き合ってきたのでしょうか
00:04:00普天間と家島
00:04:012つの土地の戦後死を見つめます
00:04:05沖縄本島中部にある普天間基地です
00:04:23かつてここはギノワンソンと呼ばれる農村でした
00:04:31初めてアメリカ軍がやってきたのは
00:04:331945年、昭和20年のことでした
00:04:374月1日、沖縄本島に上陸したアメリカ軍は
00:04:54日本軍の司令部を目指します
00:04:59住民の生活の場が戦場となり
00:05:02村では3,000人以上が戦闘に巻き込まれ
00:05:06犠牲になりました
00:05:14住民の上陸はあっちからだったんですか
00:05:17そうそうあっちから
00:05:17すごいおましたからですね
00:05:19すごい横断してきたんですから
00:05:20多摩那覇聖人さんのふるさとは
00:05:24今、普天間基地の中です
00:05:27多摩那覇さんの集落にアメリカ軍がやってきたのは
00:05:35本島上陸から2日目のことでした
00:05:38ここは本当に思い出します
00:05:41当時、多摩那覇さんは14歳、中学生でした
00:05:47多摩那覇さんは家のそばにあった豪に
00:05:51集落の人々と身を潜めていました
00:05:54何家族ぐらいが避難してたんですか
00:05:58いや、僕らはね、これ100名ぐらいおったんじゃないでしょうかな
00:06:01100名は?
00:06:03はい、子供たちがもうずっと泣いてますから
00:06:06これあの、民間人だとアメリカは思って
00:06:10で、何遍か出てこい出てこいするところも出ない
00:06:13から当時のコアジェンもね、あの、埋めたんです
00:06:17窒息させようと思って
00:06:20米軍が
00:06:22で、そしたらもう、もうみんな竹槍でね
00:06:26続いて、あの、風穴を通して
00:06:29これがね、10日から続いたんですね
00:06:33もうそれでもう大変だから、子供たちがないって
00:06:36食べるものもない
00:06:40多摩那覇さんたちは、死ぬなら外でと
00:06:43豪から出ていきました
00:06:47銃を手にしたアメリカ兵が立っていました
00:06:53びっくりしたんでね
00:06:55で、目が、目があの、あれでしょ
00:06:59青目でしょ
00:07:01みんなびっくりして
00:07:03こんなね、でかくて怖いなと思ったけども
00:07:07しかしも出てきたらね
00:07:09みんなね、その
00:07:11お菓子をくれたり、タバコをくれたり
00:07:13やってますから
00:07:15アメリカを殺す、ログルが
00:07:17あの、助けてくれてるから大丈夫だと
00:07:21家島にアメリカ軍が上陸したのは
00:07:271945年4月16日のことです
00:07:33迎え撃ったのは、日本軍守備隊だけではありませんでした
00:07:38島民も、防衛隊や青年義勇隊、女子救護隊などに組織され
00:07:43戦闘に参加しました
00:07:51しかし、圧倒的なアメリカ軍の前に、日本軍は敗退
00:07:576日目の4月21日
00:08:00島の中央にそびえるグスク山の基地が陥落
00:08:04日本軍の組織的抵抗は終わりました
00:08:13沖縄戦当時、家島の人口はおよそ3600人
00:08:19その半数近い1500人が、わずか1週間の戦闘の最中に犠牲となっています
00:08:26ヘンザン・リョウユウさんは、戦闘の間、家族とともに小さな豪に身を潜めていました
00:08:41防衛隊の一員だった兄は、戦死しています
00:08:4715年前に亡くなった奥さんも、戦争中の体験をよく話していました
00:08:55うちの家内の兄弟で、末っ子はまだ1歳の誕生もならなかったみたいですけど
00:09:12午後の中でも狭いし、暗いから泣いて、あれ知ったもんで
00:09:24兵隊からおぽろれて、親子2人で、学家のそばで暮らしにした
00:09:39生き延びた家島の人々です
00:09:43まもなく島民はすでにアメリカ軍が占領していたケラマ諸島に移送されました
00:09:55住民の4人に1人が犠牲となった沖縄
00:10:06生き延びた人たちは収容所で敗戦の知らせを聞くことになります
00:10:12国吉慎穂さんは当時6歳でした
00:10:17父親は戦死しています
00:10:21アメリカ軍の上陸直前に、防衛隊に動員された父は遺骨も戻ってきませんでした
00:10:39戦後1年がたっても、多くの人々が収容所生活を続けていました
00:10:59アメリカ軍からの配給は滞っていました
00:11:06こういうものがなくてね、もう生きてるものは何でも食べましたよ
00:11:17トービーラーでも、トービーラー
00:11:21一番おいしいのはね、米軍が捨てたね、ジャンパン、チリヒトバの
00:11:28これが非常においしいね、こういうものでしたよ
00:11:32米軍がこう、ジャンパン持ってくる、トルッコ持ってきて、コース分けをね
00:11:38そこでもう人間が撮って、そうした朝なんか行くとね、そこにはネズミがいたり、ハブがいたりね
00:11:49すべての生き物がね、そこのジャンパン目当てに来るわけよ
00:11:54人間も、だから人間も完全に動物と同じ生活していたわけ、我々は、あの自分は
00:12:01住民が収容所に連れて行かれた後の、ギノワンソンです
00:12:09アメリカ軍は、村のシンボルだった松並木を切り倒し、普天間飛行場の建設を始めていました
00:12:22集落は、滑走路に姿を変えていきました
00:12:27終戦からおよそ1年、国吉さんは、ふるさとの変わり果てた姿を目の当たりにします
00:12:46母、マカトさんと一緒でした
00:12:49自分たちの集落を見たときには、この全部建物なんか壊されてるからね
00:12:56もう、明けさみよという悲鳴だね
00:13:02で、私の母親はね、そこに、ゴゴ泣いてたよ
00:13:07もう、瓦礫の山よ
00:13:09わざとね、建ってる建物も戦車で壊してるわけ
00:13:12これは、終戦から2か月
00:13:161945年10月に、アメリカ軍が作成した海外の基地計画です
00:13:23最も重要度が高い、主要基地地域
00:13:29パナマ運河や、ハワイ、フィリピンとともに、琉球諸島、沖縄が含まれていました
00:13:35アメリカ軍による、沖縄の土地利用計画です
00:13:43赤い部分は陸軍、黄色い部分は海軍が、将来にわたって保有しようと考えていた地域です
00:13:52普天間飛行場は、高級的に保有を求める地域に含まれていました
00:13:57現在、普天間基地がある場所には、戦前、ギノワンソンの14の集落がありました
00:14:08人々はここで、サトウキビや芋を作って暮らしていました
00:14:12タマナハ聖人さんが収容所を出たのは、終戦から1年後のことでした
00:14:25その近く、よく、あっちがうちの住宅だった
00:14:32ふるさとの集落には、帰ることができませんでした
00:14:39横も、まあ、こんなに変わるんだなと思うんです
00:14:43昔を、こう、思い浮かべるとね
00:14:46どこに自分の家があったのかな、どこに畑があったのかな
00:14:54どこに学校があったのかな、と思うだけで、本当に
00:14:57父親を、幼い頃に病気で亡くしたタマナハさん
00:15:04先祖代々受け継いだ畑を耕す母を、小学生のタマナハさんが手伝っていました
00:15:14沖縄でね、土地というのはね、一つの生活の根拠点ですから
00:15:24土地がなければ、生活ができませんから
00:15:27土地ができなければ、百姓だけしての自給自足ですから
00:15:33自給自足ですから、これね、土地を取り上げられたんで
00:15:39これをもう、死ねということですよ
00:15:42土地を奪われたタマナハさんたちは、飛行場の隣で暮らし始めます
00:15:52しかし、土地は狭く、農業では生計を立てることができませんでした
00:15:58タマナハさんは、アメリカ軍の基地に働きに出ました
00:16:08重機やトラックを修理する仕事でした
00:16:11タマナハさんは、2か年くらいは、建築所に行ったんですね
00:16:16あの時は、もう仕事があって、しかもその、モータープレンに働いていたのに機械を学ぶことができたんですね
00:16:29ほかには、そういう仕事というのは特に…
00:16:34ないんですが、仕事につけば、もう…
00:16:37駅下の支えもできるし、生活がある程度安定しますから
00:16:43生きることが、もう、どうしたらできるかな
00:16:46どうしたら、飯が食べられるのかなという当時でしたから
00:16:51自然にこれ、こう、鳴らされてきたということですね
00:16:57基本変わったということではない
00:16:58自然にこう、鳴らされてきたというんでしょうね
00:17:02宜野安村の多くの人々が、基地の建設や
00:17:07基地内での洗濯、靴磨きなどの仕事について、戦後の暮らしを始めました
00:17:12終戦から5年が経つ頃には、村内の働き手の3割を超える人々が、基地関係の仕事についています
00:17:30アメリカ軍が撮影した家島です
00:17:35沖縄戦を生き延びた住民が、ケラマ諸島に収容されている間に
00:17:40いえじまでも基地建設が進められていました
00:17:47江澤さん、これはこれから何を植えられるんですか?
00:17:51いえじまに住民が帰ることを許されたのは、敗戦から2年後、1947年のことでした
00:18:11島中に軍用道路が走り、畑はブルドーザーで踏み固められていました
00:18:20しかし、フェンスで囲われているわけではなく、やがて人々は自分の土地に戻り、固い土を掘り起こし始めました
00:18:32戦争が終わったのだから、戦前のような暮らしになると思っていました
00:18:44畑を掘るにも大変だったんですよ
00:18:48畑を掘るにも大変だったんですよ
00:18:52開墾、開墾といっても
00:18:58お塩も思えないし、人の手だけで
00:19:03鶴干しで、一日一粒とかで、芋を植えてですね
00:19:27海からの北風が吹きつける島の西北端
00:19:31ここにも、踏み固められた土地を再び耕そうとする男がいました
00:19:38今、その土地は基地を囲うフェンスの中です
00:19:43方向はその辺なんですよ
00:19:4710年、14、15年前は、アゴのその、屋敷の角の石があったんですよ
00:19:56男の名は、アハゴン将校
00:19:59戦前に沖縄本島から移住し、島の西北のアレノを開拓しました
00:20:08農民が働きながら学べる、農民学校を建設する夢を抱いていました
00:20:14戦前、農民学校の計画は、実現の一歩手前にありました
00:20:26教師は、新しい農業を学んだ一人息子の正賢が勤めるはずでした
00:20:33しかし、正賢は沖縄戦で戦し、アハゴンは遺骨を拾うこともかないませんでした
00:20:40息子を失った悲しみに耐えながら、再び農民学校の実現を目指した、アハゴンの思いを聞いています
00:21:02私は生命に覚えていますけど、わざわざ夕日のきれいなところまで
00:21:11中まで連れて行かれて、見せられて
00:21:14そこで夕日を見ながらの構想を、話を聞きましたね
00:21:20必要な家畜は全部買うようにしたい
00:21:25そして牧草地は、土の少ないところがあるから、そこに牧草を植えて、家畜の餌の段取りをする
00:21:38本当に自然体で生産して、生きるという根本があったようなんですよ
00:21:48土地がなければ、人間は生きられない
00:21:52人間が生きるのは、土地が必要だということを根っこに持っているわけです
00:21:571950年、朝鮮戦争が勃発します
00:22:07沖縄は、B-29爆撃機の出撃基地となりました
00:22:16アメリカは、沖縄の基地の重要性を改めて認識します
00:22:21同じ頃、日本の占領を終わらせる講和に向けて、日米は動き始めていました
00:22:31しかし、アメリカ軍には、沖縄を手放す考えはありませんでした
00:22:41これは、講和会議の9か月前、マッカーサーが陸軍省に送った電報です
00:22:48アメリカの費用で要塞化された、琉球と小笠原の、支配を手放したり、使用を放棄したりすることなど、問題外である
00:23:06アメリカ軍は、沖縄が日本本土に含まれることになれば、日本政府は、沖縄の基地の使用について、今までよりも厳しい制限をしてくるかもしれない、と考えていました
00:23:29アメリカ軍にとっては、沖縄の基地を自由にコントロールできることが必要だったのです
00:23:371951年9月、サンフランシスコ平和条約が調印されました
00:23:47沖縄は、日本の潜在主権を残しながらも、事実上、アメリカ軍が統治することになりました
00:23:56条約は、翌1952年、昭和27年、4月28日に発行しました
00:24:0961年後の今年4月28日、政府は、試験回復の日として記念式典を行いました
00:24:23同じ日、沖縄では式典に抗議する集会が開かれました
00:24:304月28日は、沖縄では屈辱の日とされてきました
00:24:36今度から気に離されて、日本は基地70何%か沖縄に落ち着けて、自分たちは安泰という感じでね
00:24:48今日の日を祝うということは、絶対許されない気持ちですね
00:24:5330年近くも、米軍のもとに、人権も何もない状態で置かれて
00:25:01帰った日本は、思った日本ではありませんね
00:25:071952年、4月28日、沖縄は日本から切り離され、アメリカの市政権下に入りました
00:25:18港湾後、アメリカは、軍用地の地主と契約を結ぼうと動き出します
00:25:34それまで無償で使用してきた軍用地を、有償にして使い続けようとしたのです
00:25:45タマナハさんは、アメリカが地主たちに提示した賃貸料の額に驚きます
00:25:58一坪あたり、年間、タバコ一本にも満たない額でした
00:26:04これはもう情けないですよ、人間として言うと、どのように悪いじゃないですよ
00:26:16いかに戦争国であっても、それは人間として取らせてくれなければ困りますよ
00:26:26多くの地主が契約を拒否する中、アメリカは強硬な手段に出ます
00:26:56布告26号です
00:27:01この布告で、アメリカ軍は借地権を取得したと一方的に宣言しました
00:27:08軍用地として使用している時点で、すでに目視の契約が成立しているというのです
00:27:17家島にアメリカの土地係官が測量調査に来たのは、1953年7月のことでした
00:27:36家島の土地の6割は、すでに軍用地となっていました
00:27:48アメリカ軍の計画は、島の西部、マジャ地区の家々を立ち退かせること
00:27:55そして、周囲の土地を金網で囲み、円周地にするというものでした
00:28:04マジャ地区の住民にとって、それは住む家も耕す土地も、つまりは生きていく術を失うことを意味しました
00:28:16住民たちは、一丸となってアメリカ軍に立ち向かうことになります
00:28:27その中心にいたのが、アハゴン商工でした
00:28:35アハゴンは、アメリカ軍との交渉や住民同士の話し合いなどを、詳細に記録していました
00:28:42あらゆる出来事を、証拠として残すこと
00:28:47それは、アハゴンにとって、アメリカ軍と戦うための武器でした
00:28:55アハゴンは、若い日、キューバやペルーに出稼ぎに出ています
00:29:00キリスト教の深い影響も受けていました
00:29:05アメリカ軍の当局者とも、一人の人間として向き合おうとしました
00:29:131954年11月24日
00:29:17島に来たアメリカ軍将校、シャープ少佐とのやりとりを記録しています
00:29:25軍が土地を必要とするのは、東洋に不安があるためである
00:29:30分かりやすく言えば、敵の危険から沖縄を守るためである
00:29:38それはありがたいお言葉であります
00:29:42しかし、私たちも同じ沖縄人でありますから、一様に私たちを守ってください
00:29:49それはよくわかるが、大多数を安全にするためには、少数の者が犠牲になることは、気の毒だが、やむを得ない
00:30:03聖書に、一匹の迷える子羊を助けるために、99匹の羊を野に置いて探したということがあります
00:30:16それでは、君たちは、軍に反対するというのか?
00:30:25反対ではありません
00:30:27死んでは協力できませんから、生きていて協力したいと思います
00:30:32尋常規定は、アハゴンらがアメリカ軍と交渉する上での決まり事として作ったものです
00:30:50尋常の時には、神様仏様にお祈りするとしていました
00:30:55交渉時の態度についても決めていました
00:31:03怒ったり、悪口を言わないこと
00:31:08階段の時は、必ず座ること
00:31:12大きな声を出さず、静かに話す
00:31:16耳より上に手をあげない
00:31:18恐れるということはなかったですね
00:31:25私たちの言っていることは、生きるためにはやらなければいけないアレだからという、これがありましたので
00:31:36議会はアメリカ軍に住民の声を伝えていました
00:31:52接収は死を宣告されるに等しい
00:31:55総議会に届いたアメリカ軍の文書です
00:32:04演習地は、アメリカの軍隊がその任務を果たすために必要であり、使用の中止はありえない
00:32:171955年3月11日、完全武装のアメリカ兵300人が、家島に上陸しました
00:32:33長嶺長生さんは、土地収容の最後通告の場にいました
00:32:40一回、旧飛行場の向こうに全部集められてね、今日はいろんな話があるからと集められたんだよ
00:32:50土地を使用させるか、させないか、農家やすか、これ以外に答えなと
00:32:57これ以外に答えたらね、拳銃で落ち殺すって言ってね、込み込みに拳銃を持ってね、構えていたんですよ
00:33:02翌12日午前7時前アメリカ兵が波里誠二さんの家の畑に悔いを打ち込みました
00:33:12強制収容の始まりでした
00:33:15アハゴンは、波里老人がアメリカ兵に胸部を仰打される様を記録しています
00:33:26おじいは、自分の畑守るに、家から出て、この畑に立っているの
00:33:42なんでこの畑を取るのと言って、こんなにおじいは言っているんですよ
00:33:50うん、やっぱりこの土地を取らさないために、あのおじいは守っているんですよ
00:33:57波里菊さんは、義理の父、誠二さんがアメリカ兵に囲まれているのを見ました
00:34:08誠二さんは、アメリカ兵の前に寝転び、畑を荒らさないでくれ、私のベビーもママもこのように死んでしまうと訴えたと言います
00:34:19大きな声で、もうあの、おじいは言っているんですがね
00:34:27もう、むくんは何言っているかわからなかったんですよ
00:34:31自分たちももう、殺されるしかも思っていなかったんですよ
00:34:36アハゴン将校たちは、那覇の町に陳情に出ました
00:34:44泊まり込みで島の実情を訴える人々
00:34:50青年会のメンバーだった偏山博子さんも陳情団の中にいました
00:34:56何と言っていいのか
00:35:04やっと落ち着いた戦争から逃れて、やっと落ち着こうとした頃ですからね
00:35:14やっぱり一緒に一つになって、運動しないと、これは生き抜けない
00:35:22弱みも生き抜けないということで
00:35:28アハゴン将校が作った、反戦平和資料館、ヌチドゥ宝の家です
00:35:40ヌチドゥ宝とは、命こそ宝という意味です
00:35:46沖縄戦から戦後の土地闘争までの歴史を示す、資料や写真が展示されています
00:35:58これは、アハゴンが那覇に陳情に行った時、町で買ったカメラです
00:36:06戦いの武器ですね
00:36:12戦いの武器?
00:36:13武器、それは完全な戦いの武器ですよ
00:36:16ああいうような事実を、ちゃんと表示できましたからね
00:36:22やっぱり写真がないと、話だけでは伝わらないわけですけども
00:36:28それは、本当に戦いの武器であります
00:36:33アハゴンが最初に取ったのは、アメリカ軍によって破壊された家々の跡でした
00:36:41これがあれですね
00:36:50そう、ここにお家あったのよ
00:36:52そしたら、この木はみんなおじいが植えた木なのよね
00:36:57本山美代さんの家も破壊されました
00:37:03美代さんは、高熱を出していた長女を抱いて、家を出なければなりませんでした
00:37:09日本の家に入って、家に入ってきました
00:37:12ちょうどその夜は、長女が走っかでよ
00:37:16熱がものすごいあったから、一睡もしない時に壊された
00:37:22大きなブルなんか持ってきて、一回で
00:37:30簡単なうちでしょ、木で作ってるから、一回で、それで、端っかに長女がかかっているときに、テントをあっちに張ってあるから、あっちに来る。
00:37:42破壊された家の跡とその周囲の畑は立ち入り禁止となり地区の住民は耕作することができなくなりました。
00:38:03しかし、アハゴンたちは危険を犯して演習地に入り、農耕を続ける決意をします。
00:38:14上りを立てて、農耕することに決定。
00:38:24ヘンザンさんたちは、武装したアメリカ兵と向き合う覚悟を固めていました。
00:38:32こうやって演習地に入っていったんですね。
00:38:36軍に逮捕される事件が頻発しました。
00:38:40それでも、ヘンザンさんたちは、農耕をやめようとはしませんでした。
00:38:46これは、私たちの土地であって、米軍の土地ではないというあれがあったからだと思いますね。
00:38:56米軍は、力で私たちの土地を取ったのであって、
00:39:10本当の土地の権利は私たちがあるわけですよね。
00:39:16家を失った人々が収容されたテントです。
00:39:22飛行場脇の低地にありました。
00:39:26梅雨の季節で、雨が降り続いていました。
00:39:32こういうテントでしたね。
00:39:34そうそう。
00:39:38テント作られてよ。
00:39:40へっこんだところだから、工場の下だから。
00:39:44へっこんでるから、もう水がいっぱい、夜は流れて、たまるわけ。
00:39:49ああ、もう大変だったよ。
00:39:51雨降っても、あれだけど、夜になったらもういっぱい、
00:39:57ゾウリなんか下駄なんか全部流れて、鍋浜も全部流れて、朝になったらこれを拾ってきて。
00:40:06じめじめしたテントの中は熱気がこもり、人々は皮膚病に苦しみました。
00:40:15食料不足も深刻でした。
00:40:19大半のものが栄養失調になっていました。
00:40:25夜になると、女たちが演習地の中に入り、芋を拾いました。
00:40:34男の人たちいたら、捕まえたら大変だからって言って、女ばっかしです。
00:40:392、3名いって、畑でとって。
00:40:42蛇もいるんだよ。
00:40:44蛇もたくさんいるところ、あっちは。
00:40:47アハゴン将校が集めた資料の中に、テント暮らしの中で、おばあさんたちが作った流歌の録音が残されていました。
00:41:00歌って書いてありますね。
00:41:04歌って書いてありますね。
00:41:06歌って書いてありますね。
00:41:19歌って書いてない。
00:41:29歌って書いてあります。
00:41:34まくのしちゃうとき
00:41:42なみのひどしきゅるよ
00:41:50あきよくのあわり
00:41:58あきよくのあきより
00:42:03住民は追い詰められていました
00:42:10アハゴンらは古事記となって
00:42:16本島の町に出ることを決意しました
00:42:18ナハやイトマン
00:42:26そしてコザ・ナゴ
00:42:29マイクとスピーカーを積んだ手押し車を押し
00:42:33寒波を集めながら島の実情を訴えました
00:42:37やがて古事記行進と呼ばれるようになったその行動は
00:42:47軍用地をめぐり沖縄全土に広がった戦い
00:42:51しまぐるみ闘争に連なっていくことになります
00:43:00その頃沖縄本島ではアメリカ兵による事件や事故が頻発していました
00:43:09その不満はクテンマの高校生の間でも高まっていました
00:43:15国吉さんはアメリカ兵でにぎわう町中の高校に通っていました
00:43:24こうもお前と同じだな
00:43:27あそこが国吉さんの部屋とか
00:43:30我々が帰っていた学校
00:43:32当時はアツテマではなくノレキ高校といっていました
00:43:35沖縄は軍事権力が非常に強い時期だった
00:43:38沖縄の暗黒時代、高校時代は高いのでしょう
00:43:42特に女性女に対しては
00:43:45関心が非常に強いから
00:43:50肩中抱いてこうして
00:43:55血を話して酒飲んでいる昼間からやってるでしょ
00:43:59そこを若い学生さんが通るわけだからね
00:44:02大変ですよ
00:44:05社会研究クラブに入り沖縄が抱える問題について
00:44:09毎日議論していた国吉さん
00:44:13当時自宅近くで目撃したことを
00:44:16今も忘れられずにいます
00:44:20女の人が野宮から帰りをね
00:44:23外人が後ろからついてきて
00:44:26すぐそこのお家とお家の間に連れ込んでね
00:44:31そこで暴行するのを見たことがある
00:44:34恐ろしいですよ
00:44:39その時国吉さんは何も知らないの?
00:44:43もう見ないふりしていましたね
00:44:46本当あの時ね
00:44:53残念だけど本当に見ないふりしたな
00:45:04基地周辺にはアメリカ兵相手に営業する
00:45:09バーや飲食店が立ち並び始めていました
00:45:18多くの人々の生活は基地と無関係ではなくなっていました
00:45:23どんな人に貸してたんですか?
00:45:25もちろん
00:45:26借りる人は外人
00:45:27何?
00:45:28何?
00:45:29何?
00:45:30何?
00:45:31何?
00:45:32何?
00:45:33何?
00:45:34何?
00:45:35何?
00:45:36何?
00:45:37何?
00:45:38何?
00:45:39何?
00:45:40何?
00:45:41何?
00:45:42何?
00:45:43何?
00:45:44何?
00:45:45何?
00:45:46何?
00:45:47何?
00:45:48何?
00:45:49何?
00:45:50何?
00:45:51何?
00:45:52何?
00:45:53何?
00:45:54何?
00:45:55何?
00:45:56何?
00:45:57何?
00:45:58何?
00:45:59何?
00:46:00何?
00:46:01何?
00:46:02何?
00:46:03何?
00:46:04何?
00:46:05何?
00:46:06何?
00:46:07何?
00:46:08何?
00:46:09何?
00:46:10何?
00:46:11何?
00:46:12何?
00:46:13何?
00:46:14何?
00:46:15何?
00:46:16何?
00:46:17何?
00:46:18何?
00:46:19仕事じゃないよけよね言えるのね もう本当に悲しい悲しい
00:46:24話ですよ 当時の
00:46:27当時のことを思うとね 本当に悲しいですよ
00:46:36玉那覇さんは22歳で結婚 基地や建設現場で働いていました
00:46:44いつか自分の土地が戻ってくると信じていた玉那覇さんに驚きの知らせが届きました
00:46:49アメリカがそれまで毎年支払ってきた賃貸料を一括して支払うことで
00:46:59無期限に軍用地を使用したいと提案してきたのです
00:47:03アメリカがね 沖縄の買い取りに出てるんだと
00:47:11初め軍用地 あるいはもう全部沖縄全体買い取られるんじゃないかと
00:47:16一括払いというのはもう無期限買い取りと一緒でしょ
00:47:19一括払いですから もう無期限に払うということですから
00:47:26要するにこれはもう売るのと同じですよな 買い取りのと売るのと一緒ですよ
00:47:32これはどんなに苦しいね あれを言っても売るわけにはいかないんですよ
00:47:381955年 土地問題を調査するために
00:47:44アメリカからプライス調査団が訪れます
00:47:47地主たちはどれだけ土地が大切か懸命に説明しました
00:47:54翌年6月 調査団が作成したプライス勧告が公表されました
00:48:06軍の主張する一括払いを認める内容でした
00:48:10沖縄の怒りが爆発します
00:48:16土地の所有権そのものを失うのではないかという危機感は
00:48:22家島のアハゴンらの戦いともつながり
00:48:26沖縄全土に広がっていきました
00:48:29島ぐるみ闘争です
00:48:31これは家島のアハゴン将校たちが
00:48:40アイゼンハワー大統領に送った探願書です
00:48:43我々はかかる土地取り上げには絶対反対であります
00:48:53戦争準備に反対し
00:48:58米国の沖縄政策に反対し
00:49:02その反省を強く渇望するからであります
00:49:08同じ頃
00:49:13琉球政府行政主席
00:49:16トーマ10号ら沖縄の政治家たちが
00:49:19アメリカと交渉しようとしていました
00:49:21琉球政府とは
00:49:25アメリカ軍の下で行政に携わった
00:49:28沖縄の人々による統治機構です
00:49:32トーマはアメリカに出発する前
00:49:39東京に立ち寄り
00:49:40岸信介首相と会談
00:49:42沖縄代表団は日本政府関係者と協議します
00:49:49その結果作られた対米交渉の提案要領です
00:49:57一括払い方式は全面的に廃止する
00:50:05そして
00:50:08米軍の土地使用は
00:50:11その必要の存続する期間を限度とする
00:50:14としていました
00:50:161958年6月
00:50:21沖縄代表団とアメリカ軍当局者が
00:50:252週間にわたって議論しました
00:50:27その結果
00:50:29一括払い方式は
00:50:31取り下げられることになりました
00:50:33これをね
00:50:36私たちの信念が
00:50:39貫いてるんだと
00:50:41通ったんだと
00:50:42いうような
00:50:45あれがみんな
00:50:47見投げてたんじゃないでしょうかね
00:50:50俺のね
00:50:51その品込み闘争がね
00:50:53認められたんだと
00:50:55これできるのに土地の愛着というんでしょうか
00:50:59死んでも離さないという
00:51:01その戦争代表の土地をね
00:51:05守ったと
00:51:06一括払いが取り下げられたことで
00:51:11島ぐるみ闘争は収束していきました
00:51:14その後
00:51:17沖縄のアメリカ軍基地は
00:51:19さらに拡大していくことになります
00:51:21日本本土では
00:51:26高度経済成長が始まっていました
00:51:29東京・立川など
00:51:36アメリカ軍基地の周辺では
00:51:38住民による激しい
00:51:40反基地闘争が沸き起こっていました
00:51:42アメリカ軍は
00:51:49本土に駐留していた
00:51:50海兵隊の撤退を決定します
00:51:52当時
00:51:58日本各地に海兵隊が駐留していました
00:52:02その移転先として選ばれたのが
00:52:05沖縄でした
00:52:07本土から基地がなくなる一方で
00:52:11沖縄の基地は
00:52:121950年代
00:52:141.7倍に拡張していきました
00:52:171960年
00:52:23普天間飛行場にも
00:52:25アメリカ海兵隊が
00:52:26移駐してきました
00:52:28沖縄には
00:52:30核兵器も配備されていました
00:52:32ベトナム戦争が本格化すると
00:52:40普天間基地の海兵隊は
00:52:42ベトナムへと出撃していきます
00:52:45基地周辺の街は
00:52:55連日
00:52:56戦場に向かう兵士でにぎわいました
00:52:58根羽静江さんは
00:53:07普天間地区でバーを経営していました
00:53:09客のほとんどがアメリカ兵でした
00:53:13アメリカ兵でにぎわう
00:53:36普天間の繁華街
00:53:38このころ沖縄の総生産のおよそ2割を
00:53:43基地関連の収入が占めていました
00:53:45昨日の飛行機が
00:53:53あんなにテイクして
00:53:55あれだよ
00:53:57よくないねって
00:53:59お互いに隣同士
00:54:02知り合い同士
00:54:03話はするんですけどね
00:54:05表に出しては
00:54:08行動はやらなかったです
00:54:10不満には思っていても
00:54:12多摩那覇さんは
00:54:17農協に仕事を得て
00:54:19忙しい日々を過ごすようになっていました
00:54:225人の子宝にも恵まれた多摩那覇さん
00:54:30軍用治療は
00:54:33少ないながらも
00:54:34生活を支えていました
00:54:36当時
00:54:41地主たちの間で
00:54:42軍用治の契約を続けていくか
00:54:45議論もあったといいます
00:54:47飛行場があってね
00:54:50危険を伴っているから
00:54:52契約しないで
00:54:53撤去させようじゃないかと
00:54:57いうお互いの話し合いも
00:55:01多分にありましたよ
00:55:03だからね
00:55:06しかし
00:55:08これはそうだからと言って
00:55:12議論の飛行場がね
00:55:14元に戻るわけにはいかないし
00:55:16じゃあどうすればいいのか
00:55:17我々はここで
00:55:19生活をしておったんだと
00:55:21生計を建てておったんだと
00:55:23ので
00:55:24それに値する
00:55:27あんた方は
00:55:28今年の年をね
00:55:29母女ある頃をね
00:55:30身勝手に使っているわけですから
00:55:33じゃあそれなりのね
00:55:34賠償してくれよと
00:55:35いうのが当時の
00:55:39地主の
00:55:41あれです
00:55:42多くの同級生が
00:55:49基地関係の仕事に就いていた
00:55:50国吉さん
00:55:51基地に頼る生活はしたくないと
00:55:56中古車販売で
00:55:57生計を立てていました
00:55:59沖縄で広がり始めた
00:56:05本土復帰を求める集会にも
00:56:07参加していました
00:56:08あのね沖縄はね
00:56:13もう
00:56:14例えば沖縄の人を
00:56:17命と間違ってね
00:56:19殺したり
00:56:20交通事故なんかもあっても
00:56:23無罪になるし
00:56:24もうあれとあらゆることしても
00:56:27傍若無人でね
00:56:29沖縄の人を虫犬扱いするわけ
00:56:32沖縄に本当にね
00:56:35人間が人間として
00:56:38扱われるように
00:56:40今は事故をしても
00:56:43すぐ無罪になるというような
00:56:45状態であるけれども
00:56:46そういうことが解除されるようにね
00:56:49同じ人間としてね
00:56:53平等であると欲しいという考えで
00:56:56私は日常の生活をしていたわけです
00:56:58家島でも
00:57:03アメリカ軍の訓練が激しさを増していました
00:57:06島では誤爆事件などが相次いでいました
00:57:11アハゴン将校らは
00:57:15軍用地契約を拒否し
00:57:17逃走を続けていました
00:57:18土地を奪われた男たちは
00:57:25アメリカ軍が投下する砲弾を拾い売りました
00:57:29生きていくための手段でした
00:57:32飛行機から
00:57:36離した時から見えるわけですから
00:57:41だからどちらか
00:57:43この辺に落ちるんだなということ
00:57:46推測して
00:57:51これに向かって走っていくんですよ
00:57:55アハゴン将校が爆弾日記と名付けた記録です
00:58:201959年9月
00:58:24二人の青年が死亡しました
00:58:27拾ってきた砲弾が庭先で爆発したのです
00:58:32二人は心も強く
00:58:40体も頑強で戦いの中心人物でした
00:58:45私は悲しみをこらえて
00:58:49写真を撮りました
00:58:52石川聖景さんは
00:58:59亡くなった石川聖館さんの弟です
00:59:03家で休んでいる時
00:59:06爆発音を聞き駆けつけました
00:59:08もう言葉にはならなかった
00:59:31この運動は一生懸命でやったよ
00:59:46土地を返せっていう運動ですね
00:59:53一生懸命だった
01:00:02これはまあ
01:00:04こんなことは大生懸命でったよ
01:00:07私の夫は
01:00:13米軍が土地を取らなければ
01:00:16爆弾拾いなんか決してやりません
01:00:18とても農業が好きな青年でした
01:00:22口癖のように
01:00:25演習地は遠からず解放されるよ
01:00:28解放されたら
01:00:31高地の真ん中に家を建て
01:00:33楽しい生活ができるのだ
01:00:36と希望に輝いた笑顔で言うのでした
01:00:40なぜ沖縄ばかりが
01:00:46基地問題に苦しみ続けるのか
01:00:48沖縄では日本への復帰運動が高まっていました
01:00:54上上官蔵さんは
01:00:57本土との海上交流集会に参加していました
01:01:01海上交流集会とは
01:01:13鹿児島県と沖縄から出た船が
01:01:16日本との境界
01:01:18北緯27度線で出会う活動でした
01:01:22沖縄が日本から切り離された
01:01:264月28日に行われていました
01:01:29日本に帰りたくて
01:01:35それで希望していたんですよね
01:01:38日本復帰が
01:01:43とても望ましかったものでして
01:01:47基地というのはね
01:01:49僕はそう思うんですよ
01:01:50今でも基地というのは
01:01:52皆さん分かるようにですね
01:01:54人を殺す施設なんですよ
01:01:57もうあの人は基地大反対の方で
01:02:01基地をなくすためには
01:02:02日本に復帰せんといかない
01:02:05そのあれであるけど
01:02:06いつも街角でもね
01:02:09もうマイクもない頃
01:02:10大きな声で
01:02:12そのあれを持ってね
01:02:15あれを覚えてるんですよね
01:02:16こうおっしゃってね
01:02:18復帰すれば
01:02:19あの基地はなくなるからと
01:02:231965年
01:02:25アハゴンたち
01:02:26マジャ地区の住民は
01:02:28佐藤英作首相に
01:02:30書簡を送っています
01:02:31米軍の非道残忍な
01:02:37軍政下から
01:02:38一日も早く
01:02:40日本国民として
01:02:42日本国憲法の下で
01:02:44安心して生活ができるように
01:02:47我々を引き取ってもらいたい
01:02:541965年
01:02:58日本への復帰を願う
01:03:00沖縄の人たちに
01:03:01大きな希望が訪れます
01:03:04沖縄を訪問した
01:03:08佐藤首相が
01:03:09沖縄の本土吹きへの
01:03:11強い決意を示したのです
01:03:14沖縄の所属意識が
01:03:17出現しない限り
01:03:20我が国にとって
01:03:22戦後が終わっていないことを
01:03:25よく承知しております
01:03:27沖縄返還をめぐる
01:03:41日米の交渉が始まりました
01:03:43アメリカ軍の関心は
01:03:47沖縄の基地の存続にありました
01:03:50国防省の同僚は言いました
01:03:54沖縄戦でどれだけの
01:03:57アメリカ兵が殺されたと思う
01:03:59僕たちが勝ち取ったものなのに
01:04:01なぜ沖縄を返すんだ
01:04:03しかし私たちは
01:04:06もし沖縄を返還しなければ
01:04:09住民の大きな反対を受けて
01:04:12基地の継続使用が
01:04:14難しくなると考えました
01:04:15私たちにとって
01:04:19返還は
01:04:20基地を縮小するためのものではなく
01:04:23むしろ逆
01:04:25基地を今後も
01:04:27継続使用するために
01:04:29必要だったのです
01:04:301969年
01:04:36佐藤首相は
01:04:37ニクソン大統領と会談
01:04:39沖縄返還に合意しました
01:04:42しかし
01:04:47アメリカ軍基地は
01:04:48存続することになりました
01:04:50復帰に大きな期待を寄せていた
01:04:58国吉さん
01:04:59復帰後も
01:05:01沖縄に基地が残ることを
01:05:04新聞で知りました
01:05:05復帰運動をすべきじゃなかったと思ったよ
01:05:10復帰運動って
01:05:11そういう
01:05:12私たちが思っている復帰運動と
01:05:15できた復帰とは全然違っているからね
01:05:19どう違ってましたか
01:05:21どう違うかというと
01:05:23みんなあれだけなことを言えば
01:05:26日本国憲法が沖縄にも完全に適応されて
01:05:31日本同様に
01:05:35基地の整理縮小がされるという感じを
01:05:39思っていましたね
01:05:40沖縄の本土復帰後も
01:05:46アメリカ軍の基地として存続が決まった
01:05:49普天間基地
01:05:50アメリカ軍が使用する土地は
01:05:56返還後
01:05:56日本政府が管理することになりました
01:05:59もともと
01:06:03土地の9割は個人のもの
01:06:06アメリカ軍は
01:06:08地主にわずかな賃貸料を払っていました
01:06:11日本政府は
01:06:15その一人一人と
01:06:16新たに契約を結び
01:06:18アメリカに提供しなければ
01:06:20ならなくなりました
01:06:21当時
01:06:27沖縄復帰対策本部の
01:06:30本部長として沖縄に派遣され
01:06:32地主と交渉に当たった
01:06:34道崎富士さんです
01:06:362年前に
01:06:39当時のことを語っています
01:06:41なんとかしてね
01:06:45みんなの人から契約同意をもらおうということで
01:06:49一生懸命だったわけですよね
01:06:52それでもどうしても嫌だと契約は嫌だと人が出てきますよね
01:06:57だからね
01:06:58復帰の前からそうだったかな
01:07:02個人のうちをね
01:07:04一軒一軒みんな回って
01:07:05それで契約してくれませんかという
01:07:09説得をして回ってますよね
01:07:11それはやっぱり大変な業務ですよ
01:07:14数が多いから
01:07:15与党自民党と地主側が交渉しました
01:07:20地主側はこれまでの軍用治療を改め
01:07:266倍にするよう求めました
01:07:28自民党はその提示を
01:07:34満額で受け入れる決断をしました
01:07:36とにかく沖縄の言うとりにしてやれというのは
01:07:44天の声みたいな感じで出てきましたよね
01:07:47やっぱり地主が要望してるね
01:07:51学校を出してやろうじゃないかということで
01:07:55一件落着でしたよね
01:07:57だからそうでないと
01:08:02確かに米軍にね
01:08:04基地提供できなくて
01:08:05もう契約しないという人が
01:08:07もっとたくさん増えたかもしれませんよね
01:08:10国吉さんの母
01:08:16真門さんも
01:08:18土地契約を求められていました
01:08:20もう契約する中でね
01:08:28個人個人がやるんじゃなくて
01:08:31そういう集団でするもんだからね
01:08:33断ると
01:08:34あいつはと言われるわけよ
01:08:37反対したよということになるからね
01:08:40白眼視するからね
01:08:45されるから怖いわけよ
01:08:47女だからね
01:08:48ちょっとその時のお母さんの気持ちは
01:08:52どんなだったと思いますか
01:08:54とにかく基地には反対する気持ちはあるからね
01:09:03反対する気持ちはあるが
01:09:09やっぱりこの金があるから
01:09:11生活は助かるという気持ちで
01:09:14非常に複雑な気持ちだったと思いますよ
01:09:17これは沖縄大学が当時契約を拒否した地主に行ったアンケートです
01:09:32これは沖縄大学が当時契約を拒否した地主に行ったアンケートです
01:09:45契約勧誘のやり方について次のように答えています
01:09:52契約事主と未契約事主をいがみ合わせるような手段
01:09:59親戚同士を分断
01:10:05契約しないとみんなに迷惑をかけていると言われた
01:10:14一番反対していた人でさえも契約してしまった
01:10:25地主の一人として悩みながらも意見の取りまとめに当たった玉那覇さん
01:10:38地主会から功労者として後に表彰も受けています
01:10:45ふるさとが元の姿で戻らない以上
01:10:51契約に応じることが地主の権利を守る最善の道だと考えてきました
01:10:56反対どころ行けとって元に戻せることは戻せない
01:11:02そうするためには地主会も作って
01:11:09いろいろな割合をしようじゃないか
01:11:11交渉もしようじゃないか
01:11:13人体割合もしようじゃないか
01:11:15生活の根拠も作ろうじゃないかと
01:11:17いつかこれ鉄球があるんだろうと
01:11:21いつか向こうのふるさとに戻っていけるんだろうと
01:11:26こういう騒音もない平和な生活ができるんだろうと
01:11:35しか思っていませんから
01:11:38だからこういう契約したから
01:11:41これが反益的に基地を認めるということとは違いますよ
01:11:49そうじゃないですよ
01:11:501972年
01:11:54昭和47年
01:11:56沖縄は日本に復帰しました
01:11:59アメリカ軍の基地はそのまま残されました
01:12:04この時までに地主のおよそ9割が契約に応じていました
01:12:11復帰2年後の1974年
01:12:19家島で変わらない基地の現実を突きつけられる事件が起きました
01:12:24訓練基地の中に草刈りに入った青年が
01:12:30アメリカ兵に追われ発砲されたのです
01:12:33訓練中であることを示す赤い旗は
01:12:38降ろされた後のことで
01:12:39基地内での草刈りは許されていたはずでした
01:12:43今
01:12:48被害者の男性は沖縄本島の町に暮らしています
01:12:53事件の記憶を封印してきました
01:12:58やっぱり僕一人はよ
01:13:03私自身は7月10日午後6時
01:13:10毎年毎年この時期になると思い出すんですよ
01:13:15あの時やったら
01:13:16これ誰にも自分一人の心の中で
01:13:19あんなったんだな
01:13:21あの日はつかったよな
01:13:22いうのは毎年そう思う
01:13:27小坂駅でピックアップを走らせていて
01:13:31車から降りた途端に
01:13:34米軍のジープがパーッと走ってきて
01:13:37なんかわわわ叫びながら
01:13:40あの私のところ目が
01:13:41私を目がけて
01:13:42追いかけてきて
01:13:45もう相手もジープもスピードで走ってきている
01:13:50私は走ったわけですよ
01:13:51そういったらジグザグで走ったら
01:13:53ジグザグで後ろを追ってかけてくるし
01:13:55途端に後ろから
01:13:58あの信号弾で
01:14:00折ったりとの中で
01:14:01これが左手に当たって
01:14:03前に倒れて
01:14:05それから
01:14:07病院に行ったら
01:14:10手首の骨が
01:14:12降りてると
01:14:14骨折してると
01:14:15日本政府は
01:14:18当初アメリカ兵の発砲は
01:14:20公務時間外だったとし
01:14:22日米地位協定により
01:14:24裁判権は日本にあると主張しました
01:14:27しかし
01:14:29アメリカは
01:14:30公務時間内だったとし
01:14:32交渉は難航しました
01:14:34最終的に
01:14:38日本は裁判権をアメリカに渡しました
01:14:41日本政府は
01:14:44交渉の長期化は
01:14:45日米間の友好上
01:14:47好ましくないとしていました
01:14:49実際ね
01:14:53復帰しても
01:14:54してなくても
01:14:56しても
01:14:57パスポートがなくて
01:15:01本土に生き木自由にできる
01:15:02というだけじゃないですか
01:15:03ってよくなったの
01:15:04そういったと
01:15:06商品品物が
01:15:08本土から直接
01:15:09入ってくれるようになって
01:15:11生活は豊かには
01:15:13なったわけだけど
01:15:15実際の今の
01:15:16仕組みというのは
01:15:18昔も今も変わってない
01:15:20んじゃないかなと思うな
01:15:21いわゆるアメリカとの
01:15:23関係で言えばよ
01:15:25今でもアメリカ米軍は
01:15:29自由にどこでも
01:15:29行き来もできるし
01:15:31空の上でも
01:15:33海の上でも
01:15:33やりたいこと
01:15:34なんでも
01:15:35やろうと思ったら
01:15:35できるわけだからや
01:15:37こんなだったら
01:15:40やっていけないはずは
01:15:41絶対に
01:15:41復帰を経ても
01:15:47基地の被害が続く
01:15:49家島
01:15:49その一方で
01:15:52基地への
01:15:53依存も
01:15:53強まっていきます
01:15:54防衛施設場からの
01:16:00補助金によって
01:16:02島には
01:16:02ため池や病院などの
01:16:04施設が
01:16:05建設されていきました
01:16:061989年
01:16:18家島は
01:16:20垂直離着陸機
01:16:22ハリヤーの
01:16:23訓練施設を
01:16:24受け入れました
01:16:24沖縄本島では
01:16:27住民の反対で
01:16:28行き場を
01:16:29失っていた
01:16:30施設でした
01:16:31ハリヤーが
01:16:39離着陸する
01:16:40施設が
01:16:41建設されたのは
01:16:42アハゴン
01:16:43商工の
01:16:43土地でした
01:16:44アハゴンらは
01:16:50強く反対しましたが
01:16:51その声が
01:16:53家島全体の
01:16:54ものになることは
01:16:55ありませんでした
01:16:56受け入れ決定後の
01:17:05村議会の
01:17:06記録です
01:17:07議員の一人が
01:17:10ハリヤーの
01:17:11訓練施設受け入れ後の
01:17:12見返り条件について
01:17:14村長に質問しています
01:17:16村長は
01:17:2010項目を
01:17:21回答しています
01:17:22訓練施設の
01:17:47受け入れを
01:17:48決断した
01:17:48島袋清徳
01:17:50元村長です
01:17:52あちらである農水産業の
01:17:57基盤整備を
01:17:59やらなければ
01:18:00飯を食っていけない
01:18:01やるにしても
01:18:02金がない
01:18:03一番
01:18:06人の滑りの
01:18:07経済的には
01:18:10本当より苦しくなるのは
01:18:11覚悟できても
01:18:12しかし教育と
01:18:13医療においては
01:18:14これだけは
01:18:15本当と同じ条件に
01:18:16ありたいというのが
01:18:18私は
01:18:19またこうすると
01:18:21こう努力すると
01:18:23言ってきましたし
01:18:24私のもう一つの信念
01:18:29理念でしたから
01:18:30今のままなら
01:18:36基地周辺
01:18:37整備法を利用して
01:18:39異論問題
01:18:40教育環境整備
01:18:42農業基盤の整備
01:18:44全てあらゆる
01:18:46もう何一つないんです
01:18:48村長でなければ
01:18:51一個人
01:18:52四国の個人に戻れば
01:18:54絶対反対しますよ
01:18:56ところが
01:18:57長となれば
01:18:58これ絶対に
01:18:59全体の
01:19:00何と言われようと
01:19:01考えますよね
01:19:03かつて
01:19:05アハゴン将校とともに戦った人々の中にも軍用地契約を結ぶ人が増えてゆきました
01:19:13えっとから
01:19:17やあ皆さん
01:19:25こんにちは
01:19:27こんにちは
01:19:29よくいらしてくださいました
01:19:32ありがとうございます
01:19:331955年
01:19:38若者たちに家島の歴史を語るアハゴン
01:19:44その旨のうちにはいつも戦争で死んだ一人息子のことがありました
01:19:52ヌチル宝の家に展示されている戦争中に住民が着ていた衣類です
01:20:03ある時アハゴンは
01:20:05このボロ布をまとって島を歩き
01:20:08戦争の資産を訴えたいと言い出しました
01:20:12しかし
01:20:16ジャハナさんはボロを着ての行進をやめさせようとしました
01:20:20もはや住民にキーの目で見られるだけだと思えたからです
01:20:27クラフさせてはいけない家族も飛んできて
01:20:35で
01:20:35もう
01:20:36まとうんですけど
01:20:38やったらもう
01:20:39四五目五六目もいるからすぐ外したり
01:20:42もうつけたら外してついてこういうことで
01:20:47ずっとされているのをこうしてやってたら
01:20:50あとはあなた方は一人息子を亡くした
01:20:55親の気持ちが分かるかと一言言われたんですよ
01:21:00それでギクッときてみんな手を引きましたね
01:21:05本人は堂々たるもので
01:21:07あの形で役場でまず村長が出てこられているんです
01:21:13堂々と訴えているんですね
01:21:15これが戦争ですと
01:21:17アハゴンは豊かさと引き換えに
01:21:22基地を受け入れる村を複雑な思いで見つめていました
01:21:26基地遺存、たりき本願、天からぼたもち、こじき根性
01:21:35これであっては誠に情けなく寂しい限りです
01:21:41村の真の繁栄はこのようなたりき遺存ではなく
01:21:46勤労し村民自らが汗して気づく
01:21:51永遠に衰えないものでなくてはならないと信じます
01:21:562002年
01:22:02アハゴン将校は世を去りました
01:22:06去年101でした
01:22:09半世紀にわたってアハゴン将校と行動を共にしてきた
01:22:20ヘンザン陵侑さん
01:22:21今も軍用地契約を拒否しています
01:22:26畑では苦売りが実り
01:22:31ナスや芋の植え付けが始まっています
01:22:34昔はこの畑は一面の原でありました
01:22:42ですからバルという地名がたくさんあります
01:22:48カヤモーバル
01:22:51オヤタケバル
01:22:53ヤーバル
01:22:54カネクラバル
01:22:56キジャカバル
01:22:58そしてマジャバル
01:23:00マジャバルの芋は一本から三かごとれる
01:23:12昔からこのように歌われているように
01:23:16マジャバルはひよくな土地でありました
01:23:30復帰から20年以上がたった1995年
01:23:36普天間基地を揺るがす事件が起きました
01:23:40私たちに静かな沖縄を返してください
01:23:47軍隊のない悲劇のない平和な島を返してください
01:23:54沖縄に駐留する海兵隊員が
01:23:59少女を暴行した事件
01:24:01日米地位協定によって
01:24:05犯人の身柄がすぐに引き渡されないことに
01:24:08住民の多くが抗議の声を上げました
01:24:11翌年
01:24:17普天間基地の返還がアメリカと合意されました
01:24:22我々自身が解決しなければならない課題を
01:24:30この約束によって背負うことになります
01:24:33しかし今も普天間基地の返還は実現していません
01:24:40さらに来月オフスプレイ12機の追加配備が計画されています
01:24:47基地に頼らない暮らしを求め続けてきた
01:24:53国吉信宝さん
01:24:55もうあれですよ
01:24:57これが基地でなければ良いところですがね
01:24:59海部長も見えてね
01:25:02基地が見えるからな
01:25:06基地がね
01:25:16目の前に下げている人参ね
01:25:19みたいにもなるわけや
01:25:22もういいよかわいそうであるけれども
01:25:23軍事基地は反対であるけれども
01:25:26でも自分自身の生活のためにね
01:25:29必要なお金が入ってくるわけや
01:25:31人参が入ってくるわけだからね
01:25:33そうしたそれがだんだんだんだんすると
01:25:36この人参は
01:25:37本当マヤコみたいなものだったということが
01:25:40あたりは分かったんですよね
01:25:41マヤコの効果というのは
01:25:43もうこの基地に対してみんな黙るようになったわけ
01:25:46最初はねみんな反対していたのに
01:25:51アメリカがね沖縄を守っているというのが
01:25:53こうからアメリカさんさん
01:25:55様々なっていたわけ
01:25:56アメリカがいるからこそ
01:25:58沖縄は生活できるんだと
01:26:00いう話がなっていたわけ
01:26:02生活はしながらしないとダメだからね
01:26:06沖縄の人々の苦しみというのはね
01:26:12本当の人が分からないこういう意味で
01:26:14うん
01:26:16先月沖縄は異例の日を迎えました
01:26:27激しい地上戦で犠牲となった人々に手を合わせ
01:26:40平和への祈りを捧げます
01:26:43米軍基地の集中が今なお沖縄県民の大きな負担となっております
01:27:02私が先頭に立って沖縄の振興を総合的
01:27:07選択的にお勧めてまいります
01:27:10日米両政府に対し
01:27:15一日も早い普天間飛行場の県外移設
01:27:21そして日米地位協定の抜本的な見直しを強く求めます
01:27:29沖縄県は普天間基地の県外移設を求めています
01:27:37日本政府はアメリカとの合意に基づき
01:27:43名護市辺野古への移設を進めようとしています
01:27:46これがまだまだ戦争があるみたいですね
01:27:55こうしてね
01:27:56戦争越しにこうして
01:27:58アメリカの兵庭がおるわけですから
01:28:00まだまだ戦争が続いているみたいじゃないでしょうか
01:28:03僕らの土地でありながら
01:28:10アメリカの兵庭が
01:28:12我が物がね案内して行動しているんじゃないでしょうか
01:28:15あれが戦争が終わったと言えないんですよね
01:28:18これが国益になるでしょうか
01:28:26よく国益のためなどと言うんでしょ
01:28:30こういうことがあって国益になっているんでしょうか
01:28:34どう思いますか
01:28:35どう思いますか
01:28:37戦争を生き抜いた後も
01:28:42嫌悪なく基地と向き合わなければならなかった沖縄
01:28:46終戦から68年
01:28:51今も戦後の終わりを見つけられずにいます
01:28:57ご視聴ありがとうございました
01:28:58ご視聴ありがとうございました
01:29:10ご視聴ありがとうございました
01:29:40さまざまな人々の証言で綴る水又
01:29:49Eテレ13日土曜夜11時です