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  • 6 日前
昭和8年の大津波で911人がなくなった岩手県宮古市田老(たろう)。24年をかけて巨大防潮堤を建設し、その姿は「万里の長城」と呼ばれた。1960年のチリ津波特別措置法の制定にあたっては、津波対策のモデルとなり、その後、全国に多くの防潮堤が建設された。田老にも第二の防潮堤が建設されたが、東日本大震災では破壊され、多くの犠牲者を出した。戦後日本の津波対策を田老の防潮堤を軸に人々の証言で見つめていく。

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トランスクリプション
00:00:00岩手県宮古市太郎
00:00:12有史以来繰り返しこの土地を津波が襲いました
00:00:17海岸近くに伸びる巨大な傍聴堤は津波との戦いのシンボルです
00:00:26いつの日からか太郎の人はこう呼ぶようになりました
00:01:01昭和8年に三陸を襲った大津波で太郎は最大の犠牲者を出しました
00:01:10太郎は津波太郎とも呼ばれるようになります
00:01:17そんな津波から町を守ろうと
00:01:26昭和の津波の翌年に建設が始まったのが傍聴堤だったのです
00:01:31最初の傍聴堤が完成したのは昭和33年
00:01:39着工から実に24年後のことでした
00:01:44日本ではあるのは類のない施設だったし
00:01:50あらゆる世界的にも類のない施設なんじゃないかと
00:01:54傍聴堤完成の2年後
00:01:59地理地震津波が三陸各地を襲います
00:02:02しかし太郎に来た津波は低く
00:02:08傍聴堤には到達しませんでした
00:02:10ところが傍聴堤が津波から町を守ったという報道が広まります
00:02:21高度経済成長を背景に津波対策として
00:02:46三陸各地に次々と傍聴堤が築かれていきます
00:02:50津波というのは傍聴堤で防げるものだというのが
00:02:59おそらく一気に広まったんですね
00:03:02というのが学会あたりで津波の話をしても
00:03:07お前はアホかって言われましたから
00:03:10津波なんていうのは傍聴堤作りはあれだ
00:03:13もう防げるんだから
00:03:15太郎にも二つ目三つ目の傍聴堤が作られます
00:03:22昭和54年
00:03:26全長2.4キロメートルの
00:03:29X字型の傍聴堤が完成しました
00:03:31しかし
00:03:35あれ津波来たよ
00:03:39早く逃げて
00:03:40津波が来たよ
00:03:43逃げて
00:03:44平成23年
00:03:492011年3月11日
00:03:52東日本大震災
00:03:53津波は防潮堤を越え
00:03:57その一部を破壊して
00:03:58太郎の街を襲いました
00:04:00こういう傍聴堤もできるから
00:04:04ここまでは来ないと
00:04:07守っててるんだよね
00:04:09うん
00:04:10まさかここの
00:04:12傍聴堤まで越すような津波が来ると
00:04:15思わなかったんじゃないですか
00:04:18戦後日本の歩みを
00:04:26地方から見つめるシリーズ
00:04:28日本人は何を目指してきたのか
00:04:31第6回は
00:04:36巨大傍聴堤を築き
00:04:38津波と向き合ってきた
00:04:39三陸太郎の記録です
00:04:48朝6時
00:05:01およそ500の小舟が沖合を目指します
00:05:05ノコギリの歯のような
00:05:12リアス式海岸が続く岩手県宮古市
00:05:15太郎はその北部にある漁業の街です
00:05:22毎年11月から12月にかけて
00:05:29太郎はアワビの口焼けで湧き立ちます
00:05:33口焼けとは年に5日ほどある解禁日のこと
00:05:41漁が許されるのは3時間余り
00:05:45沖合で親潮と黒潮がぶつかる三陸は豊かな海
00:05:53ワカメや昆布
00:05:56ウニやアワビ
00:05:58太郎は海の幸に恵まれています
00:06:02この日漁師たちは平均して20キロのアワビを取りました
00:06:10大木田文夫さん63歳
00:06:19代々漁師の家に生まれた大木田さんは半世紀にわたってこの海に生きてきました
00:06:30今の値段で1万円だと
00:06:41今日は25万ぐらいでね
00:06:46こっちの差も合わせれば
00:06:481日年25万そうだね
00:06:51ハハハハ高らくせがお待ちだ
00:06:56おじゃこを飲んでて
00:06:57今日はあったかいですね
00:07:00今日はあったかいねえ
00:07:02千恵さんが子どもの頃の太郎です。
00:07:21三陸有数の漁場で生きる人々およそ5000人が住んでいました
00:07:31千恵さんが小学校6年の時襲ってきたのが昭和三陸大津波でした
00:07:42昭和8年3月3日
00:07:45夜中の2時半過ぎ
00:07:50マグニチュード8.1震度5の地震が起きます
00:07:54昔からあの
00:08:20電気が消えれば危ないから逃げるってことは耳に入れてだったの
00:08:3030分後に襲ってきた大津波
00:08:44高さは最大10mに及びました太郎の居住地域のほとんどが浸水三陸で最も多い911人もの死者を出しました
00:08:59千恵さんの家も4人が犠牲となりました
00:09:36家族8人の家族8人のうち愛さんを除く人がいるので
00:09:38家族8人のうち愛さんを除く人がいるので
00:09:42津波の犠牲の犠牲になりました
00:09:44家族8人のうち愛さんを除く7人が津波の犠牲になりました
00:09:54小学生の時に愛さんが書いた作文が残されています
00:10:16そばに寝ていたお父さんがとんきょうな声を上げて自信だ自信だと家の人たちを皆起こし
00:10:38母さん昭和8年の3月3日覚えてる?覚え忘れられない
00:10:50話になってごうごうちょうど
00:11:00大きいから波がおしげをする音だべんねん
00:11:16バリバリバリバリって言うの
00:11:20家の子が出る音
00:11:27家族に助かったと思う
00:11:35みんな逃げた人たちは
00:11:39めいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめいめい
00:12:09家の形は何にもねみんなぶっかけてうんそれだけの気を受けたなうん
00:12:28昭和8年の大津波の犠牲者はおよそ3000人現在の宮城県山本町から北海道江里茂町に至る町や村が大きな被害を受けました
00:12:44三陸をどのように復興させるのか昭和8年の津波から3ヶ月後に国が打ち出した対応策です
00:13:03最も推奨すべきは高知への移転
00:13:09国は被災地の人々に津波の到達しない高い土地へ移り住むことを勧めたのです
00:13:18しかし太郎村では国の方針とは違う取り組みを模索していきます
00:13:28中心になったのは村長関口松太郎です
00:13:33津波発生からわずか3日後関口が自ら記した議案書です
00:13:44堅牢なる防波堤を適所に築造し安全なる小漁港をたらしむる。
00:13:57関口が念頭に置いていたのが漁師たちの暮らしでした
00:14:05海で生計を立てていった太郎の人々
00:14:13住居が海から近いことは重要なことでした
00:14:18漁師が高台に移っては仕事にならない
00:14:31こう考えた関口は防潮堤を作り太郎の人々の暮らしを守ろうと考えたのです
00:14:42半分以上はもう浜で生活するようなもんだからね
00:14:49海の口はきもはずまんだから8月まで
00:14:53あって今度はその間今度は天の若めが終わる
00:14:58この養殖の人は今度は昆布今度ははずまんです
00:15:01だけずっと1年以上そのサイクルでやってる
00:15:04津波は前は悪いでも海様様だねやっぱりね
00:15:09昭和8年の大津波から間もなく太郎の人たちは次々と海辺に戻っていきました
00:15:20その当時の様子を覚えている人が太郎に暮らしています
00:15:28昭和8年の津波の時は15歳でした
00:15:38家は流されましたが漁師だった父はすぐに元の場所に家を建てたといいます
00:15:52いつでは誰も亡くならないから男が5人女が5人の兄弟だったのです
00:16:02私はそして男だざわり材料しろってこんなに粉々に壊れなかったから
00:16:10渚に寄った材料しろって何かしろ食べしろ食べて
00:16:16やはり同じ土地に村を復興させるしかない
00:16:26関口は岩手県の知事を説得します
00:16:30さらに東京から町づくりの専門家である技師を呼び
00:16:37村独自のプランで太郎復興を図ることになります
00:16:41なぜ東京の技師だったのか
00:16:4610年前の関東大震災で壊滅状態となった東京
00:16:54内務大臣後藤新平の下最新の復興計画を打ち立てます
00:17:04大規模な区画整理によって町を災害に強くしようとしたのです
00:17:09しかし予算規模が大きすぎたため全てが実現したわけではありませんでした関口はこの復興プランに着目し後藤のもとで働いた技師を招いたのです
00:17:26太郎に当時の村議会の記録が残されています
00:17:34関口村長が東京から来た技師と練り上げた太郎の復興計画図です
00:17:45そこには太郎の町を包み込むような傍聴亭と市街地計画が描かれていました
00:17:56巨大傍聴亭を作った上でそれだけに頼らず町を五番の目のような形に設計
00:18:10赤沼山など高台へすぐに避難できるようにしたのです太郎漁協に勤めていた梶山幸次郎さん
00:18:27父から関口村長のことを聞かされて育ちましたそれこそ偉大な村長さんなども本当に太郎の礎をつくった村長さんですよね村長さんは当時の村の総予算の十数倍かがあるもう本当にあのそういうのは膨大な金額だったようなんで
00:18:56議会の中でそれを皆さんから理解してもらってそんな関口に折れる形で国は全面的に方針を変えました太郎の復興計画を次のように書いています
00:19:21現地復興をなすほか道なし
00:19:27暴露亭つまり傍聴亭の建設を認めたのです
00:19:35国と県から建設費が出されることになりました
00:19:40昭和8年の大津波に耐えうる防潮堤が計画されました津波の1年後に始まった工事には太郎の人たちも加わっていきます
00:19:59まず丸田を込んだお母さんだったらほらよいとまけ言うとんやってモンキーをつうであのまず丸田を入れてこう長さこう今でも鉄コンクリーを入れんでこう鉄筋を入れこうだと思う
00:20:19それからまず丸田を掘って入れてそしてその上さまた積み上げて真ん中ごろまで太郎の真ん中ごろまで掘りこすれていったんです
00:20:29この頃日本は戦争の時代に突入していました防潮堤の建設は中止され太郎の人たちも戦争に動員されていきます太郎の男たちの多くが向かったのは生きて帰れると言われていたんです
00:20:59南太平洋ニューギニアアカナマヨシさんの夫ユウヤさんもニューギニアで戦いました昭和19年の5月の二重すずにずだった。
00:21:18夫ユウヤさんは戦死しましたヨシさんには3人の子供が残されました。
00:21:29血のかぎさかぐらいでメイクは自分の体だけは守って帰ってきてケロケロ言ったの俺頑張ってこの子供らは3人終わしておくからってそうって言った後もすでに争奪紙切り一つで骨箱さ何か入ったんだらあげてもみねえと空箱ねっそういう状態でそうすぎる。
00:22:58当時太郎で父親の漁業の手伝いをしていた田畑佳さんです。
00:23:35これだけの大した基礎が出ますからねだから太郎はもう津波にしても大丈夫だというような気持ちになってましたけどもね。
00:23:47昭和33年太郎最初の傍聴亭が完成しました。
00:23:59海面からの高さ10メートル。
00:24:02総延長1350メートル。
00:24:06日本でかつてない規模の傍聴亭となりました。
00:24:13太郎の中心部の市街地を守る形に作られた傍聴亭。
00:24:20太郎の街にもシンボルとなってゆきます。
00:24:35この太郎大中学校の交渉の言われなんですけれども、実はこの三角形の部分なんですね。これは暴露亭を表していると。
00:24:50堅固な造りで作られた暴露亭。そして周りに波のような形で丸く来ているもの。これは何度となく太郎の街を厳しい状況に追い詰めた津波を表しているというふうになっています。
00:25:12結局、太郎一中世への思いとしては、その暴露亭の中できっちりと一中世として不当不屈の心をもって地域を担う人になってほしいという、そういう願いで描かれた交渉です。
00:25:32降下三倍よ !
00:25:36FORスト...!
00:25:38帽路抵衣を仰ぎみよ
00:25:44帽路抵衣を仰ぎみよ
00:25:45帽路抵衣を仰ぎみよ
00:25:50青黄みよ 試練の津波 行く旅と
00:26:02乗り越えたてし 我が郷土
00:26:10地元で防災対策にあたってきた山崎正幸さんです。
00:26:27小八年の後に津波の後にできた防潮堤はこういった防潮堤ですけれども津波が入ってきたらば津波を川の上流の方に力を反らしてやるというようなそういう造りになっています。
00:26:50自然の力に逆らわずに力を反らしてやるという考え方ですねどんな防潮堤を作ってもどんな高さの防潮堤を作ってもその防潮堤を越えてこないとは限らないものですから防潮堤を越えてくるっていうのはもう最初から想定をしていたということになりますよね。
00:27:18戦前に関口村長が立てた計画に基づき防潮堤を越える津波が来ても逃げられるように町が作られていました。
00:27:30どこに進んでいても通りに出てくればまっすぐ避難すべき方向を見通せるようにこういった放射状の道路整備をしている。
00:28:15その対策というか工夫としてこの墨切りということがあります。
00:28:21道路の交差点の角を切って斜めに切っていくのに向こうもそうなってますし斜めに切ることによって見通しをよくしている道路の見通しをよくして出合い頭の衝突を避けているということですね。
00:28:40太郎の人々は傍聴堤だけでなく津波に対する備えを徹底していきます。
00:28:55毎年昭和三陸大津波が来た3月3日には町民総出で避難訓練を繰り返してきたのです昭和8年の津波体験者の多くはいつでも逃げられるような準備を続けてきました
00:29:14そしたらほれお父さんの大豆のそんな書類みんなこれに入りどいたからしょって逃げたんですやっぱこういうふうにいつでも逃げられるようにはしていつでもこうしてしょってちゃんとそれはやっぱり津波がいつ来てもいいその初年の津波が結局は勉強になってるわけあああ
00:29:41新谷愛さんの娘英子さんは両親から津波対策をたたき込まれていましたうちの父も昭和8年で親を亡くしてるわけですでまあ私の両親は2人とも津波で津波を体験したわけですね。
00:30:05だから私たちの家族は何にも難しい教えはなかったです夜寝る時は枕元に次の日に着る服をきれいに畳んでおくとそれは厳しかったですよ
00:30:23暗闇の中でも目をつぶってもちゃんと服を着れるような状態で重ねておいてそして玄関の靴はいつもこうそろえてないとすごく不機嫌な父親だったんですよ。
00:30:44だから夜中に大きな地震があったら手探りで服を着てそろえてる靴をそのまま履いてあとはずっと赤沼山に逃げてくってそれですね。
00:31:01最初の防潮堤が完成した2年後の昭和35年1960年5月24日。
00:31:16南米のチリで起きた巨大地震による津波が太平洋を渡って日本の沿岸を襲います。
00:31:27被害の中心は三陸でした。
00:31:33とりわけ被害が大きかったのが岩手県大船渡市でした。
00:31:4053人もの命が奪われました。
00:31:48到達した津波は町ごとに高さに違いがありました。
00:32:30このぐらいのラインがねバーッて来ちゃって大きくなるんですよだから危機感を全然持ってなかったわけですああ来てたんだなそれでこうそれであの辺に自分の船いっぱいあったけどもそれを一応確かめに行ったわけですああ船もう波打ち側に確認に行けるぐらいそうそう全然危機感なしでああ
00:32:59国土地理院によれば太郎に来た津波の高さは3.5メートル
00:33:08防潮堤までは到達しませんでした
00:33:16しかし翌日の全国紙は防潮堤が太郎町を守ったと伝えます
00:33:23津波くじく防波堤
00:33:27堤防で止めたという、ご堂が書いてあったんでね、なんだ、やっぱりマスコミで新聞はね、デタラメ言ってね、ガッツな感じだしたわけです。
00:33:39うん。
00:33:41NHKではドキュメンタリー日本の素顔で三陸の被災地の様子を報じましたまず伝えたのが最大の被災地大船渡の被害でした。
00:33:50一番被害が大きかったところは岩手県の大船渡市です。
00:34:32被害は天災ではないということを立派に証明した町があります。
00:34:36岩手県宮古市の北にある太郎町。
00:34:41町と海とを隔てる全長1350メートル、海面より10メートル高い堤防が自分たちを津波から守ってくれると安心しきっているのです。
00:34:55彼らはこの堤防を万里の頂上と呼びます。
00:35:00百の財産よりも一つの堤防。
00:35:04大津波の惨事は私たちにこう教えているようです。
00:35:10この番組をディレクターとして制作したのが瀬川雅昭さんです。
00:35:16津波発生後すぐに現地に駆けつけ5日後には放送しました。
00:35:25国土のインフラを整備しなきゃいけないんだなっていうことを考えてそれで大船渡からずっと取っていった。
00:35:36もうそのあれじゃない災害が起こって太郎町が無事だったとそれでこっちは大被害そこでそれを番組にするんならばそのこの防潮堤がどれだけその国民生活に大切かっていうようなところを思いついたんじゃないかな。
00:36:05戦後初めての大きな津波災害を受けて国政も動きました。
00:36:14翌日には内閣に津波被害対策本部が設置されます。
00:36:21私どもはぜひ速やかに国会もこの津波その対しては対処することにいたしたいと。
00:36:36国会議員たちは建設省、運輸省など関係省庁の官僚とともに1週間後には被災地を視察しました。
00:36:45この時運輸省防災課から三陸に派遣され津波対策に取り組んだのが久田康生さんです。
00:37:00政治家や官僚たちとともに真っ先に向かったのが太郎でした。
00:37:09そういえば太郎っていうのは有名だよなっていう話はもうすでに防災課の中でも話題に出てましたから。
00:37:21太郎はね、やっぱりあそこはぜひまず見てみようよというのが各省関係者の意見でしたから。
00:37:31太郎に行ったことは覚えていまして、太郎の堤防のゲートがありますね。ゲートで閉まるようになって、そのゲートのすぐ外側のところへ立ってね。
00:37:43地元の方、漁業組合の方やら、厚労の方って言いますかね。そういう方のお話を聞いたことは覚えています。
00:37:52船が変な形で散らばってたことは覚えてますね。まだまだ片づけられてなかった。しかし今回は昭和三陸ほどの大きさではなかったねっていうことはおっしゃってましたね。
00:38:12行く前に思っていたあと、行ってご覧になったあと、いや、見事にやっぱり効果を発揮したようだなと、なるほどと思いました。
00:38:24太郎の傍聴亭には、チリからも視察に訪れる人がいました。
00:38:34世界に太郎の名が知れ渡っていきます。
00:38:42三陸をはじめ北海道や三重、和歌山などからも被害の実情が報告され、北海で予防策が急がれていきます。
00:38:56ちょうど60年安保闘争の最中でした。
00:39:02学生や市民のデモ隊が国会を取り巻いていました騒然とした政治状況の中で津波対策は衆参両院で進められていきます6月7日衆議院建設委員会で発言したのは三陸から帰ったばかりの二階堂進議員でした。
00:39:32私は東北三県をつぶさに視察して早急に立法措置等をぜひ行っていただきたい。こういう強い要望があった。
00:39:50二階堂は防潮堤の重要性を訴えていきます。
00:39:57防楼堤と申しますか。そういうような堤防があったところは比較的被害が少ない。人命が失われずに済んでおる。
00:40:11抜本的な対策を立てて人命なり家屋なり財産なりを未然に防ぐという措置が必要であろうと思うのであります。
00:40:26参議院の建設委員会でも防潮堤は議論の中心でした。
00:40:33太郎の名を何度も口にしたのは建設官僚から政界に転じた米田政文議員でした。
00:40:42米田は三陸各地を視察した時の地元の反応を訴えていきます。
00:40:51太郎町のような防潮堤をぜひ頼むというのが合言葉になっておる。
00:41:03分かりやすく言えばああいう防潮堤を建設するということだと思います。
00:41:13行き先でまたこんな災害が起こっちゃ大変だからちゃんと防潮堤作ってくださいよ太郎は見事に降下したじゃないですかっていう声はもういろんなところで皆さんに言われました。
00:41:29やっぱり防潮堤がきちっとあればね結構防げるんだなっていう頭は皆さんにあった。
00:41:37叶うしもそれだけで防げるわけじゃないわけですけど素人が見ればね見事に太郎の場合は効果発揮したんだからああいうものを作ってもらえばいいな急いで作ってくださいっていう声はもう行くとこ行くとこ。
00:41:53もう船戸でも釜石でも八戸でもいろんなところでそういう声ありましたよ。
00:42:006月27日被災から1か月という早さで交付されたのが地理地震津波特別措置法です。
00:42:15津波対策事業とは
00:42:18施設の新設または改良。
00:42:23施設とは
00:42:29防潮堤などコンクリートの構造物のことです。
00:42:36津波は基本的に構造物を作って防ぐという方向に国は火事を切ったのです。
00:42:4810年間で所得を倍増にすると申しました。8年で実施したことが倍になります。
00:42:58この年所得倍増計画が打ち出され高度経済成長が始まっていました。
00:43:05所得倍増の時代なら税収もどんどん増えるということもあったんでしょうけどもね。
00:43:15いろんな省庁を協力してほらもうちやめてねなんていうか私に言わせれば比較的イージーにスッといったと抵抗がイージーっていうのは要するに反対者がいないいわゆる反対者がいない抵抗がないだから国民みんなが望んでるって形でねスッとこういった。
00:43:37地理地震津波特措法に基づき三陸各地で津波対策が進められていきます。
00:43:53地理地震津波で大打撃を受けた大船渡にも19億円をかけ防波堤が築かれました。
00:44:04運輸省では昭和39年から大船渡湾の入り口に津波対策のための防波堤を築き始めました。
00:44:14特措法によって岩手県だけで防潮堤や防波堤が48箇所、総延長およそ50キロにわたって計画されました。
00:44:27総工費はおよそ40億円でした。
00:44:31陸前高田には高田松原と市街地を守るため総延長3.8キロの防潮堤が作られました。
00:44:45背面から最大で5.5メートル。
00:44:49地理地震津波の高さに対応するものでした。
00:44:52しかしこうした対策だけに頼ることに危惧を抱く人もいました。
00:45:02津波研究の第一人者、首藤信夫さんです。
00:45:08首藤さんは地理地震津波の直後、建設省の研究員として三陸の調査に入りました。
00:45:14地理地震津波緊急対策事業というのが1967年で終わったと思いますが、その中でバタバタバタバタ構造物ができたんですね。
00:45:32それがある程度済んでしまったら、もう地震津波対策は終わりですよ。
00:45:41だからそこが問題。
00:45:44防潮堤もね、本当に言うといいか悪いか分からない。
00:45:49防潮堤があるおかげで安心しすぎると、それより大きなものが来たときは大変なことになりますからね。
00:45:56対策事業が終了した翌年、三陸各地の防潮堤が効果を発揮する出来事が起きます。
00:46:05昭和43年、トカチュキ地震によって発生した最大6メートルの津波を防いだのです。
00:46:20作った防潮堤が全部ほぼ100%効いたわけですよね。
00:46:27だからね、それでも大体津波っちゅうのは防潮堤で防げるもんだというのが恐らく一気にね、ひるまったんですね。
00:46:37で特に若い人の間ねでじいさんばあさんはそれこそ昭和や明治の津波はこんなもんじゃないよって言ったけどもどっちかと言ったらやっぱり防潮堤でやるじゃないかという雰囲気にあの時からとかあったのは大体身に覚えてますね。
00:46:58っていうのが学会あたりで津波の話をしてもねお前はアホかって言われましたから津波なんていうのは防潮堤作りゃねあれはもう防げるんだから津波の中身をちゃんと知ろうとかねそれの理論をやってみようとかねそれはもう役に立てない無駄なことを公務員とのお前がねやるっちゃ何ちゅうことだと怒られたことありますよ。
00:47:23太郎町も地理地震津波特措法に基づき新たな防潮堤の計画に乗り出します。
00:47:34当時太郎の人口は8300。
00:47:38廃線直後に比べ2000人近く増加し住宅地が不足していました。
00:47:47太郎町は新たな防潮堤を作り宅地を増やそうとします。
00:47:52昭和35年の町議会で町長久保里七がこう発言しています。
00:48:02太郎の今後伸びる方向は乙部青猿の方にしか考えられませんので県を通して強力に陳情してみます。
00:48:18おとべ青猿の方とは最初の防潮堤の外側に広がっていた野原地区のことでした。
00:48:32この地区を守るための新たな防潮堤建設を県に訴えたのです。
00:48:39陳情は認められ昭和41年に第2の防潮堤が完成します。
00:48:47海面から10メートル最初の防潮堤と同じ高さでつながりました第2の防潮堤の完成翌年町長久保里七は野原地区について議会でこう述べています。
00:49:08市街地造成を行う考えであります。
00:49:15久保から4代後の町長野中良一さんです。
00:49:22野原地区の市街地造成はやむをえない選択だったと考えています。
00:49:30やっぱり核化家族化が進んでしまってねみんな下の方に宇宙建てた方がいいということになってその当時から規制でもかければ良かったのかもしれませんけどやっぱり土地がない手前というところからいったと思いますね。
00:50:28そこの角に1軒だけ家があったんですよ。ここは全部桑畑ですね。僕の小さい頃はうちはたった1軒だけ。
00:50:37ですから昔は昭和40年ぐらいまではうちはほとんどないですよ。最初はねこっちの防潮堤の中でね本当は本来は開業したかったんですが土地がなかったのでやむをえずねこっちで開業したんですよ。
00:51:01本来ならばこの町の中に集約できるぐらいのものがあればねこちらに家を建てるということはあんまりしなかったと思います。
00:51:11少しずつ少しずつやはり意識が薄らいでるのも確かなんでしょうね。
00:51:18はい大谷札さん78歳昭和8年の津波で家は全壊し流され一家は高台に引っ越しました
00:51:48しかし父親が漁師だったため高台の家は不便でした。
00:51:57まあ大きいお家だったけどもうちだけはいいけど何かお仕事をねうちの前でするにも狭いからやっぱり広いところがいいし便利なところがいいからということで。
00:52:17昭和48年大谷さんは野原地区に移り住むことになりました。
00:52:26もともと持っていた畑を利用して家を建てたのです。
00:52:32札さんの姉、宮さんも野原地区に移ってきました。
00:52:39昭和61年、宮さんと夫は野原地区に6階建ての観光ホテルを新築しました。
00:52:50当時、三陸鉄道が開業したばかりでした。
00:52:57波浪を訪れる観光客も増えていました。
00:53:05バブル景気の波にも乗り新築のホテルは人気を呼びました。
00:53:12お部屋に入ってこうなんとなく笑みが見えたりなんだりするとお客さんたちねなんとなくふっとしてああいいなって言いますから私もこのテープを散歩しながらやっぱり
00:53:35津波で行き残った方々が頑張ってくれたのでこんな立派な町ができてるのかなと考えながらね。
00:53:46うんやっぱりここは海からのね恵んでしちゃ寮が良かった時期があったもんだから太郎も本当に。
00:54:00ホテルは平成14年に息子の松本雄貴さんが引き継ぎました。
00:54:12傍聴点が開くからやっぱり我々もそれが頼りだし、泊まってる人たちもやっぱり傍聴点が開くから安心して泊まれたんだと思います。
00:54:26平成17年に撮られた野原地区の写真です。
00:54:35昭和30年代に50世帯ほどだったのがこの頃では3倍以上に膨れ上がっていました。
00:54:48傍聴点はさらに伸びていました。
00:54:54昭和54年、3番目の傍聴点が完成。
00:54:59太郎を囲い込むようにX字型の傍聴点が完成したのです。
00:55:05総延長は2.4キロになりました。
00:55:13それまでほとんど住居がなかった野中地区。
00:55:18第三の傍聴亭はこの地区を守る形に作られたのです。
00:55:28平成10年から7年間太郎町長を務めた野中良一さんです太郎を防災の街としてアピールしました。
00:55:44そうですね20になりましたからねですから20このぐらいやったらもう絶対心配はないんじゃないかと安堵感もありましたとだからもう万全を期したつもりだったんですでいずれ日本では類のない施設だったしあるいは世界的にも類のない施設なんじゃないかと。
00:56:08昭和の津波から70年を迎えた平成15年、2003年太郎町は津波防災の街宣言を出しました。
00:56:24必ずやおそうであろう津波に長民一丸となって挑戦する勇気の発信地となるためにも昭和三陸大津波から70年の今日ここに津波防災の街を宣言しました。
00:56:43津波の中心に宣言文の日があります。
00:56:50津波の中心に宣言を出す。
00:56:53津波災害の歴史を忘れず。
00:56:59近代的な設備におごることなく。
00:57:07必ずや襲うであろう津波に、町民一丸となって挑戦する。
00:57:20宣言文の草案を作ったのは当時太郎町で防災担当だったあの太郎って防潮堤のことで有名になってるんですけども一番大事なことは防潮堤があるということよりもそのものものとしての防潮堤形のあるものじゃなくてあの人の心の中に防潮堤があります。
00:57:49ちゃんと避難をするとかですねそういう気持ちが多くの人たちの心の中に続かれていることが大事なので自分たちの内側に対して危機感を持ち続けなさいというようなことをみんながそうしていこうという宣言なんですね。
00:58:18このころ町では防災無線高潮を監視するシステムそして津波を予測するシステムを充実させていました。しかし町民の意識の中に変化が起きていました。
00:59:48それに津波はもうしばらく来ないんだっていうやはり全くも若い人たちはそんなに来ないんですからねああこれ風化してしまったなっていうような気もずっとおりましたがねうん。
01:02:06平成23年2011年3月11日東日本大震災。
01:02:22太郎では900戸近い家屋が流出し181人が犠牲となりました。
01:02:38太郎を襲った平均16メートルの津波。
01:02:45津波はまず第3の防潮堤を乗り越えます。
01:02:53そして第2の防潮堤を破壊し野原地区に侵入。
01:03:00最初の防潮堤も越えていきます。
01:03:05最初の防潮堤から自宅が100メートルほど離れていた防潮堤があることからひざの悪い知恵さんは家から動きませんでした。
01:03:32隣が隣の隣が壊れるまで聞いてたの何人が次さん私のうちだな今度壊れんなわざてのうちだなと思ったっけね波がこの前まで来たったのこの前まで水はここまで来たのでもこっちまでは来ないそっちも助かったんですこういう堤防もできてっからここまでは来ないと。
01:04:31その中心から30メートルほどのところに赤沼さんの店はありました。
01:04:39それではみんな分配してみながらワークしたくても落ちてるからみんな逃げて、私は一人に乗ったお酢車を乗ったんで、車を押して一人で山越え土さまざむを逃げています。
01:04:565メートルもいかないやつにガリガリで相談してね
01:04:59そしてその稼働さんは流れでなくなっていったんです
01:05:05私はそのまま逃げてきたから助かったね
01:05:09私は逃げておくともう手分の上に波が見えたんです
01:05:13海だって波でない
01:05:16波だらこうこうなってくるけど
01:05:19小水かさの早いに見えていってくださったもの
01:05:23こっちはお墓があります
01:05:25ここも危ないとみんなが思ってですね
01:05:30もうここよりももっと高いところ高いところっていって
01:05:33奥へ奥へとみんな逃げてきました
01:05:35黒田仁さんは当時太郎の診療所の医師でした
01:05:41多くの人が避難路をたどって赤沼山に逃げ込みました
01:05:50ここにねいっぱい人がいたんですよ
01:06:00本当にいっぱい人がいたの
01:06:03でもここから見えるんですよこう波みたいなのがね
01:06:16でもここから見えるんですよこう波みたいなのがね
01:06:28すごいこう揺れてですね
01:06:31もう暴露堤がどっか壊れちゃってるなんて話もあったし
01:06:36そこ海みたいになっちゃってましたから
01:06:38あのまた来るかもしれないと
01:06:40太郎の中でも取り分け大きな被害を受けたのが野原地区
01:06:52押し寄せる津波を太郎観光ホテルで目撃した人がいます
01:06:57地震の直後
01:07:03松本雄貴さんは防災無線の放送を聞くためにすぐに外に出ました
01:07:09松本さんは3メートル以上の津波という警報を1回だけ聞いたといいます
01:07:17太郎が整備してきた防災無線
01:07:23宮古市によればこの日
01:07:27防災無線は津波の前に7回警報を伝えたといいます
01:07:323メートル通情報だけでいえば
01:07:38もう港に波が上がる程度のことかなとは思ってました大きくても
01:07:43だからここまで届くことは全然考えてませんでした
01:07:47ホテルの6階に上った雄貴さんは窓の外にカメラを向けました
01:07:55想像もしない光景が目に入ってきました
01:08:01あれ津波来たよー早く逃げてー
01:08:09津波が来たよー逃げてー
01:08:15早く逃げないとー
01:08:23津波切ったよー
01:08:25波が荻の方から立ったまんま来てた
01:08:42途中でこう病んでほしい止まってほしい
01:08:45このまんまずっと津波が続いて水位が高くなってくると
01:08:50ホテルまで水没するんじゃないかなと思って
01:08:54思ってたので
01:08:56もう途中で止まってくれって
01:09:01祈りながら撮り続けました
01:09:04津波は太郎観光ホテルの4階まで到達しました
01:09:13松本さんは6階にいたため難を逃れました
01:09:18従業員も全員無事でした
01:09:23高台から野原地区に移り住んだ大谷札さん
01:09:32自宅は全壊し流されました
01:09:36ここでした
01:09:41ここが宅地になったから
01:09:59つうことでこっちに下がってきましたね
01:10:03うん
01:10:05だけども
01:10:08まあこういうように
01:10:11突然の
01:10:13出来事がしたらば
01:10:17本当になんか悔しいずんだが
01:10:20梶山幸次郎さんの畑は野原地区にありました
01:10:28その名前の通り野原だったし
01:10:34やっぱりここは当然
01:10:37あれが
01:10:39堤防ができる前は本当に
01:10:41何が来てもすぐここまで来るから
01:10:43家を建てるって相当危険だったわけなんで
01:10:48明治29年からやっぱり
01:10:51それの繰り返し繰り返し来て
01:10:54昭和8年にもやっぱりここ全部やられた後に
01:10:58ここにまた住んで堤防を作って住んで
01:11:04そしてまたやられて住まったわけなんで
01:11:06そういう面では
01:11:08やっぱりこの堤防っていうのは
01:11:12安心はさせるんですよね
01:11:15どうしても
01:11:15地理地震津波特措法を受けて作られた
01:11:25第二の傍聴堤
01:11:28今回の津波で
01:11:29基礎部分から破壊されました
01:11:36野原地区だけで57人が犠牲になったのです
01:11:42三陸各地を襲った津波を
01:11:47防潮堤はどう受け止めたのでしょうか
01:11:51津波対策のための防潮堤や防波堤は
01:11:552011年までに岩手と宮城で
01:11:58およそ190カ所
01:12:00170キロにわたって築かれていました
01:12:03東日本大震災によって
01:12:07およそ9割が破壊されました
01:12:10津波により市役所や駅を含む
01:12:23市の中心部が壊滅した陸前高田
01:12:26地理地震津波特措法によってできた
01:12:35総延長3.8キロの防潮堤
01:12:38東日本大震災の津波に
01:12:41耐えることができませんでした
01:12:44奥のところに波があるんですけど
01:12:50ここって頭出してるやつがあると思うんですけど
01:12:52海の中に
01:12:53あれが第二戦艇の跡ですね
01:12:57昔のやつ
01:12:57あれが地理津波の跡に作られた
01:13:01はい作ったやつです
01:13:02じゃあ今回の311であれはもう完全に
01:13:09はい期待してもう倒壊して
01:13:11なくなっています
01:13:12陸前高田では1700人以上が犠牲になりました
01:13:25地理地震津波を受けて防潮堤計画を進めた
01:13:36運輸省防災課の久田康夫さん
01:13:39当時のことを今も思い返しています
01:13:4350年前にもし超えても壊れないようなものを作るとかね
01:13:53あるいは超えるかもしれないよ
01:13:55超えた時どうするかも考えておきなさいよっていうことを
01:13:58言えた人はあんまりいなかったと
01:14:01あんまりうまくいなかったんじゃないですかね
01:14:04多分誰も言ってないから今回みんなが反省してるんだと思いますよ
01:14:10俺はその時言ったんじゃないかっていう人は
01:14:13あんまり出てこないでしょ
01:14:14その時そんなこと言えた人は
01:14:18省庁の方も政治家も市長さん村長さん町長さんも含めてね
01:14:28そういうことを住民の方に言える方はなかった
01:14:34この時私は言えたら本当によかったなと思ってます
01:14:41これはもう私の防災担当者としての
01:14:47なんていうか悔しさっていうか
01:14:51まあねその
01:14:56人間の知恵っていうのはなかなか
01:15:01後知恵は尽きますけれど
01:15:04その時はなかなかね
01:15:06政府は大震災を受け
01:15:11津波対策に関する専門調査会を設置
01:15:145ヶ月の議論を経て
01:15:17次のような対策をまとめました
01:15:191000年に1回程度襲ってくる最大級のレベル2の津波は
01:15:27防潮堤を超えることを想定
01:15:29手段を尽くした総合的な対策を立てます
01:15:33一方100年に1回程度のレベル1の津波は
01:15:38基本的に防潮堤で防ぐという方針です
01:15:491兆円に近い予算が組まれ
01:15:53各地に10メートル級の防潮堤が計画されました
01:15:57しかし今
01:15:59三陸各地の住民から
01:16:02見直しを求める声が高まっています
01:16:05宮城県気仙沼市では
01:16:1022の海岸で
01:16:12住民との合意が得られていません
01:16:14海水浴場として名高い大谷海岸に
01:16:21防潮堤が計画されました
01:16:23隣接する日門漁港にも
01:16:27防潮堤が計画され
01:16:28いずれもその高さは9.8メートルです
01:16:39もともと防潮堤がなかった日門漁港
01:16:41今住民と行政との間で
01:16:45話し合いが続いています
01:16:47どこの漁港もね
01:16:53防潮堤から何かで
01:16:55コンクリート化してされてしまって
01:16:59せっかく今
01:17:00うちの方の砂浜は
01:17:03幸にも残って
01:17:06砂が自然のままであるので
01:17:12こういう自然を大切にしたいと私は思います
01:17:19景観を損なう
01:17:23自然への影響はないのかという声が
01:17:26相次ぎました
01:17:27一方
01:17:37防潮堤の存在意義を問いかけている地域もあります
01:17:41岩手県釜石市
01:17:44ケロベ地区です
01:17:45この地区には
01:17:50高さ2メートルほどの
01:17:52高潮用の堤防があるものの
01:17:54津波対策の防潮堤はありませんでした
01:17:56東日本大震災で
01:18:07津波はこの堤防を越え
01:18:09集落を襲いました
01:18:1068世帯中
01:18:1425世帯が流されましたが
01:18:16皆高台に逃げ
01:18:18犠牲者は1人にとどまりました
01:18:20ここも全部水入ったの1回だけね
01:18:26その下もずっと入っている水
01:18:28入っているけども
01:18:29もう進めるから
01:18:30だから今現在住んでいる
01:18:32町内会長の下村重俊さんです
01:18:36この集落にも
01:18:40県の防潮堤計画が示されました
01:18:42しかし住民の話し合いの結果
01:19:01暴動艇はいらないと
01:19:03結論を出したんです
01:19:04海で暮らすんだから
01:19:11海を見なきゃいけないよと
01:19:12常しごろから海が見えること
01:19:14あとは防潮堤とかそんなのじゃなくて
01:19:19まず逃げるっていう選択肢
01:19:21防潮堤あれば帰って
01:19:22海にあれでるのが見えなくて
01:19:24逃げないよねって
01:19:25だったら海が見えた方がいいよね
01:19:27朝起きれば例えば
01:19:30じゃあ海に出るかって時
01:19:31海を見るから出るか出るか決めるわけでしょ
01:19:34あと朝起きた時の海が見えないってことになれば
01:19:37むしろこう生活に違和感がある
01:19:40ハード面を過信してはダメだよと
01:19:43自然は怖いんだよっていう認識を持って
01:19:45やっぱりそうなったらすぐ逃げようよというのが
01:19:49一番大事だと思います
01:19:50岩手県の防潮堤計画は135カ所に及びます
01:19:57そのうち防潮堤の高さを住民の意見によって低くすることになったのは
01:20:0421カ所に登ります
01:20:06地理地震津波の後現地調査をした東北大学の首都信夫さん
01:20:20これからの津波対策の在り方について提言を続けています
01:20:26生活ができしかも安全であるという組み合わせ
01:20:32どういう組み合わせを住民が良しとして取るかね
01:20:37それをやってないと結局は大きいもの作ってあげたから大丈夫だろう
01:20:45安全だろうって作ってあげた方は
01:20:50俺はできる限りのことをしたと思ってても
01:20:53そこで生活が慣れていないとみんなどこか行ってますよね
01:20:58そうすればせっかく作ったものが結局は役立たずになりますがな
01:21:03だから最終的には住民がきちんとした情報のもとに判断をして
01:21:10それを行政が助けてあげるという姿勢じゃないとね
01:21:15防災対策なんて長続きしませんね
01:21:18それはあります場所場所でみんな違います
01:21:21もうそれはだって場所場所で皆さんの生活のしかたが違うんだもん
01:21:26それは違って当たり前ですね
01:21:27ハローでは震災直後から住民と行政との間で将来ビジョンが繰り返し話し合われてきました
01:21:38話し合いを受け新しい街づくりが進んでいます
01:21:48その一つが高台移転です
01:21:53野原地区の裏山を切り開き
01:21:57280個余りの住宅が建てられることになります
01:22:01そして防潮堤も作り直すことになりました
01:22:07例えばこういうふうに高台に全部移転すればですね
01:22:16防潮堤は確かになくしてもいいのかもしれないし
01:22:20傘を上げる必要もないかもしれませんがですね
01:22:23今回の津波でこの防潮堤があったがためにですね
01:22:26奥まで奥の方のですね
01:22:29ああいう奥の方の集落までですね
01:22:33津波が行ってないんですね
01:22:35こっちの海に近い第一線というのですね
01:22:40防潮堤の方はですね
01:22:42これから4.7メートルプラスして14.7メートルします
01:22:47それによってですね
01:22:49背後に津波が来ないような形のものもですね
01:22:53人作っておかないとですね
01:22:55こういうふうに住めなくなる場所も事実なので
01:23:00そういう方々はああいう高台の方にですね
01:23:03移転をしていただいて住むようにするというような方針でですね
01:23:08両方を相まったような形で
01:23:10町づくりをしていきたいというふうに思っています
01:23:12海側に作り直される防潮堤は
01:23:17今までより高い14.7メートルになります
01:23:20震災で最も被害が大きかった野原地区は
01:23:26居住可能地域は高台の造成地と旧市街の一部に限定される予定です
01:23:39太郎の魚市場は震災の1年半後に再開しました
01:23:49しかし漁業を離れた人たちも多いといいます
01:23:56代々漁を続けてきた
01:24:05大木田文雄さん
01:24:07太郎にとどまり漁業を続けていこうとしています
01:24:12今から5年6年にはもう何十年の単位だったのでね
01:24:20本当にここが元の暮らすが落ち着くまでといえばね
01:24:24今更まだねどこかに行ってて
01:24:29住まいを移ってて知らないどこにも行きたくもないしね
01:24:34やっぱり俺海が過ぎだから
01:24:36やっぱり海からあんまり離れただけだからね
01:24:39太郎観光ホテルの松本雄貴さんは今
01:24:46震災の記憶を多くの人に伝えようとしています
01:24:50自身が撮った津波の映像を
01:24:55ここに来る人に見せ
01:24:57体験談を語る活動を始めたのです
01:25:00で私がここから撮った映像なんで
01:25:06ここから見てもらうのが一番当時のことが
01:25:09伝えられるかな伝わるかなと思って
01:25:12ちょっと真ん中の頃見てもらうのが
01:25:17ああ来たから
01:25:18ほんとだ
01:25:21あれ津波来たよ
01:25:23早く逃げて
01:25:25いやいやいや
01:25:26津波が来たよ
01:25:29逃げて
01:25:30早く逃げないと
01:25:38やっぱり本来は地震で判断して
01:25:46早めに逃げるという基本を忘れて
01:25:50やっぱりその逃げる気持ち
01:25:53逃げる気が少しずつ薄れていったんじゃないかなと思ってますね
01:25:58目に見えるものと言葉で伝えていくことが
01:26:01逃げる気持ちになって
01:26:03最後に助かることにつながるのかな
01:26:05太郎で亡くなった人たちが
01:26:08本当はゼロであるべき街だったのに
01:26:10こうやって亡くなってしまったんで
01:26:12やっぱり恐ろしさを伝えていくことが
01:26:14一番ゼロに近づけるのかなと思ってました
01:26:174階まで津波が襲った太郎観光ホテルは
01:26:23野原地区の象徴として
01:26:25残されることになりました
01:26:27国費によって保存が決まった
01:26:31最初の震災遺行となりました
01:26:34防潮堤がなくなって
01:26:43やっぱり一番変わったのは
01:26:45海がこんなに近かったかなっていうのを一番感じますね
01:26:49今までは防潮堤があったんで
01:26:51奥の方からしか見えなかったり
01:26:54ここの中にいたために
01:26:56特に下の方にいる人たちは海が見えないんで
01:27:00多分こんなに近くに海があったとは
01:27:03あんまり感じないで暮らしてたんじゃないですか
01:27:06いずれ海の見えない町でした
01:27:12海が近くにあったのに
01:27:15海の恵みで大きくなって
01:27:20海でやられて
01:27:23また一から始まるような形の
01:27:29あれを繰り返してきた町じゃないでしょうか
01:27:31まあもうこんなにやられてしまってるから
01:27:35もう人生の最初と後みたいな感じで
01:27:40常に人々の暮らしの近くにあった
01:27:47太郎の海
01:27:48時に荒れ狂い
01:27:52そして恵みをもたらしてきました
01:27:55その海とどう付き合い向き合っていくのか
01:28:00自然と人間との関わりという
01:28:07重い課題を三陸太郎の歩みは
01:28:11私たちに問い続けています
01:28:13ご視聴ありがとうございました
01:28:43ご視聴ありがとうございました

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