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  • 6 日前
戦前、日本の植民地・朝鮮半島北部で一大コンツェルンを築いた日本窒素肥料株式会社(後のチッソ株式会社)。敗戦後、引き揚げた社員が中心となり、水俣工場の再稼働が始まる。戦後復興と食糧増産という国策と結びつき急成長。戦後11年目の1956年、水俣病は公式確認。経済成長政策のもと対応は後手に回り、被害は拡大。チッソの城下町・水俣の運命も大きく変わっていく。元社員、患者らの証言を通して、水俣の軌跡をたどる。

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ニュース
トランスクリプション
00:00:00今年4月16日
00:00:14水俣病をめぐる最高裁判決が出ました
00:00:17亡くなった水俣氏の女性を水俣病と認定しました
00:00:23申請から39年がたっていました
00:00:26今、改めて水俣病とは何かが問い直されています
00:00:32水俣病が公式に確認されたのは昭和31年
00:00:42窒素・水俣工場の排水に含まれていた有機水銀に魚介類が汚染され
00:00:48その魚介類を食べた人が脳や神経を侵された有機水銀中毒です
00:00:54初期の激症型といわれる患者は激しいけいれんを起こすなどして重症者は次々に亡くなっていきました
00:01:06坂本忍さんは母親の体内で有機水銀に侵された胎児性水俣病患者です
00:01:20忍さんが生まれたのは昭和31年
00:01:25水俣病が公式に確認された年です
00:01:29忍さんは56歳になりました
00:01:33どうして人間は皆と同じで
00:01:45どうして皆が50年生まったんだ
00:01:57どうしたと思った
00:02:00当時窒素の社内で水俣病の原因は
00:02:08工場排水なのかどうか研究していた人たちがいます
00:02:11原因企業窒素の社員たちも
00:02:19それぞれの立場で葛藤を抱えていました
00:02:22やっぱり窒素が原因だったのかと
00:02:27その時はやっぱりショックですよね
00:02:29今まで自分たちは窒素と思ってなかったのが窒素ということですね
00:02:34話したい衝動はありますけどそれを話すと
00:02:38水俣病は地域全体に大きな影響を及ぼしました
00:02:47市民の中には患者の存在が
00:02:52自分たちの生活を脅かすという感情も生まれ
00:02:56深い溝ができていきました
00:02:57怒りの矛先というのは
00:03:02その頃はやっぱりある意味じゃ
00:03:06患者さんに向いていたんじゃないですか
00:03:09お客さんが少なくなるのも
00:03:11騒ぐから騒いで取り上げられるから
00:03:15知らなくてもいいことまで皆さん知ってきて
00:03:20地方から戦後を見るシリーズの第2回は水俣です
00:03:28戦後復興から高度経済成長の過程で生じた水俣病
00:03:34患者、窒素の社員、一般市民
00:03:38それぞれの立場で水俣病とどう向き合ったのか
00:03:42証言で見つめます
00:03:43水俣病患者の荒木陽子さんです
00:04:10荒木さんの父親は漁師でした
00:04:14ここでタコやアワビを巧みにつき
00:04:18ホコつき名人といわれていました
00:04:20かつて水俣の海は魚が湧いてくるといわれるほど豊かな海でした
00:04:31塩い狩りにみんな船持ってる人が行ったりとかします
00:04:43私たちも勢いったんですけど
00:04:48はい、塩い狩り
00:04:52その、じゃあ貝が取れるんですか?
00:04:57取れるんですね
00:04:59まあ、食べるのも好きだけど
00:05:02その、取るのも好きなんですよね、私たち
00:05:05こっちの人たち、みんな
00:05:08よう釣れましたよ、前はですね
00:05:10100匹とか120とかですね
00:05:14あの、カサゴって普通、ガラカブといいますけど
00:05:18ガラカブ
00:05:19だからアワビとかも引っ掛けて
00:05:22取って持ってきた
00:05:24その頃はもう面白いばっかりで
00:05:26今日は大量よって
00:05:28ニコニコして、もう疲れは
00:05:30いっぱい取れた時はもう体がきついはずですけど
00:05:33もう嬉しさで、きつかとかわからんとでした
00:05:37どんな海だったんですかね?
00:05:40あの、見た目は今でもきれいですけどね、きれいかったですよ、もう、ああ、ここにいっぱい魚が泳いどっとだがって思えば、もう、宝の海でしたね、とにかく。
00:05:55波穏やかな白ぬい海を望む熊本県水俣市
00:06:04人口2万7000、そのおよそ半数が窒素と関係があるといわれています
00:06:12市街地の中心で巨大な工場が創業を続けています
00:06:19戦後の水俣の復興は窒素水俣工場の再建から始まりました
00:06:26戦時中、水俣工場は爆薬や防弾ガラス、軍服の素材などを製造する軍需工場でした
00:06:40そのため、何度も空襲を受け、壊滅状態に陥っていました
00:06:47窒素は、そこから目覚ましい速さで工場を稼働させます
00:06:58昭和20年10月15日
00:07:01終戦からわずか2ヶ月で、肥料となるリュウアンの生産を再開しました
00:07:06食糧難の中、農民たちがリュウアンを求めて窒素に殺到したといいます
00:07:14窒素は工場の再建を急ピッチで進めていきました
00:07:24島田勝さんは昭和21年、工場建設の要員として15歳で窒素に入りました
00:07:44何もないところから作り出すと面白さがあるわけね
00:08:00工場が何もなく、がれきの山を崩してしまったという
00:08:06そして、一つ工場ができると、もうそれこそ徹夜までしてやった仕事が
00:08:14結果がそういう製品ができてくるという、その喜びがあるでしょう
00:08:19やっぱり、そういう工場を作るものは
00:08:23島田さんの父親も窒素の下請け会社の社員でした
00:08:30昭和11年、島田さんが5歳の時
00:08:34窒素の工場があった朝鮮半島に渡り、資材の運搬に当たっていました
00:08:40この荷物の積み下ろしのうちの親父たち
00:08:58ここの現場監督でね
00:09:02窒素の前身、日本窒素肥料株式会社は
00:09:10戦前から戦中にかけて軍部と結びつき急成長した新興財閥でした
00:09:16東南アジアや中国、朝鮮半島に
00:09:20およそ50の関連会社を持つ一大企業グループでした
00:09:25中でも、朝鮮半島北部の湖南工場は
00:09:30世界有数の巨大化学工場でした
00:09:33帝国大学をトップクラスで卒業した技術者が競って入社し
00:09:42関連会社を含めた従業員は8万人にも上りました
00:09:51巨大なダムで大河をせき止め
00:09:54水力発電所を次々建設
00:09:57この電力を利用して
00:10:02最先端の化学工場を建設していきます
00:10:06土地を安く買い上げ
00:10:11現地の労働者を低賃金で雇い
00:10:14食料増産のための化学肥料や
00:10:17爆弾に使う火薬を生産
00:10:19さらに軍服に使う人工繊維などを製造しました
00:10:29前線へ兵器や食料を供給する重要な役割を担っていました
00:10:36子供から見てどんな工場に見えてますか
00:10:43ほうね
00:10:45あんま大きすぎてね
00:10:48工場で焦げるとこが働く
00:10:52なんていうか
00:10:54水俣弁で災いかね
00:10:55半分はあれも興味もあるわけ
00:11:01恐ろしいなという感じですね
00:11:04やっぱり大きすぎてたやな
00:11:06普通は日本人はここは四駆者宅地を打ったりするもんね
00:11:12お依頼さんたちは山の方にあったわけ
00:11:17お依頼さんでもだって一軒一軒だったもの一個ずつだって
00:11:23あのね朝鮮はね言ってご無礼だけども
00:11:30日本人はね非常に融合されてたのは
00:11:35朝鮮の人たちの家が低くて
00:11:39でどこもやっぱり通りも
00:11:42人間がやっとくとかがんで入るような
00:11:45外が泥壁でね全部ね
00:11:48それでむしろの厚いのをね
00:11:51ただ避けてあるだけの裏側があるよってね
00:11:54子供ごころにもなんか
00:11:56支配階級みたいな感じですね
00:11:59やっぱり給料的にも差別があったし
00:12:03だからやっぱり反感を受けるのは
00:12:07もう仕方なくかなと思った終戦後ね
00:12:11敗戦後朝鮮半島から引き上げてきた社員たちの手で
00:12:20窒素は再建を果たしていきます
00:12:22昭和24年には昭和天皇が窒素水俣工場を訪問
00:12:33社員を激励しました
00:12:35窒素は戦後復興の象徴でした
00:12:39窒素は高度経済成長の牽引者となっていきます
00:13:04水俣病が公式確認された昭和31年
00:13:09経済白書はもはや戦後ではないと宣言
00:13:14安くて丈夫な化学繊維や軽くて使いやすいプラスチック
00:13:23冷蔵庫などの電化製品
00:13:28大量消費の時代が幕を開けました
00:13:34当時窒素はビニールの加工に必要な原料などを製造していました
00:13:43その製造過程で有機水銀を含んだ排水が海に流されました
00:13:49扇に日の丸
00:13:54伝統のマークをつけた主力製品のオクタノールは
00:13:59高度経済成長に欠かせないものとして
00:14:03窒素は市場を拡大しその後も増産を続けます
00:14:07大都市が高度経済成長に沸いている頃
00:14:16水俣の海では異変が起こり始めていました
00:14:20漁村ではフラフラと泳ぐ魚が見られるようになりました
00:14:25犬や猫が狂ったように暴れたり
00:14:30海に飛び込んだりしました
00:14:32鳥が突然空から落ちてくることもありました
00:14:42昭和20年代の終わり頃から
00:14:47主に漁民の間に原因不明の病気が現れました
00:14:52初期の激症患者です
00:14:55激しい痙攣
00:14:58体の硬直
00:14:59重症者は次々に亡くなっていきました
00:15:03昭和31年5月1日
00:15:10水俣保健所に原因不明の疾患の発生が報告された日が
00:15:14公式確認の日とされています
00:15:17水俣病患者の荒木陽子さんです
00:15:28ホコツキ名人と言われた漁師の父は
00:15:41水俣病で亡くなりました
00:15:44父親は昭和29年突然発症
00:15:59激症型の症状に苦しみ続けました
00:16:03父親に続き母親
00:16:09そして夫
00:16:12弟と妹も発症しました
00:16:21荒木さんは今
00:16:32一人暮らしです
00:16:33荒木さん自身も
00:16:45水俣病で
00:16:46体の硬直や夜中の痙攣に悩まされてきました
00:16:59荒木さんが発症したのは
00:17:01小学校の勾配部で働いていた
00:17:0320歳の頃です
00:17:06水俣病の症状で
00:17:08一時はボールペンも持てなくなったといいます
00:17:13これが消化器の医療センターの薬
00:17:20さっきのが循環系の薬
00:17:22さっきのが循環系の薬
00:17:35自分もまさか水俣病やるかって思ったら
00:17:38バックリしましたよ
00:17:40持てなくなるというのは
00:17:43どんな感じなんですか
00:17:44全く力がないわけです
00:17:46出ないわけ
00:17:48これこんな立った重みもそうないでしょう
00:17:52そのボールペンを握れなくなった
00:17:54だからここは襖ありますけど
00:17:57襖を開けることもできなかった
00:17:59手に力がなくて
00:18:01足はまあ良かったんでしょうね
00:18:03漁技悪い話ですけど
00:18:04足でこうして開けて
00:18:05そっちの部屋に行ってました
00:18:09もう死にたいって思ってましたよ
00:18:12一つももうその1対1思わんだったですね
00:18:16もうは水俣病になっただけ
00:18:18直れは戦闘だけど
00:18:20とにかくこうマイナス思考で
00:18:22シューンとなっていたんですから
00:18:24白ぬい海を見下ろす高台にある
00:18:34水俣病患者のための施設
00:18:37明水園
00:18:39水俣病患者
00:18:55上野英子さん
00:18:5785歳です
00:18:58親や兄弟が亡くなり
00:19:01自身も高齢になったため
00:19:032年前ここに入所しました
00:19:06明水園では重症の胎児性患者や
00:19:14高齢の水俣病患者など65人が
00:19:18リハビリなどを受けながら生活しています
00:19:21上野さんは豊かな海を望む
00:19:35水俣の湯道地区の漁師の家に生まれ育ちました
00:19:39湯道は後に水俣病多発地域になります
00:19:44結婚後も夫と寮をして暮らしていました
00:19:57昭和33年夫が突然発病
00:20:03激しく暴れ回りもがき苦しみながら
00:20:07発病からわずか13日で亡くなりました
00:20:10夫の葬儀から6日後
00:20:18長女涼子さんが生まれました
00:20:22しかし涼子さんは半年経っても
00:20:281年経っても首が座らず
00:20:31手足の力もありませんでした
00:20:33その時はその病気は何だと思っていたんですか
00:21:01その時は全然わからないですね
00:21:13きびきびで言われて
00:21:15お父さんとかご主人も含めて
00:21:21原因はその時はどういうふうに思ってたんですか
00:21:23その時は全然わからないですね
00:21:26きびきびで言われて
00:21:27本当わからなかったですよ
00:21:31昭和36年
00:21:36涼子さんはわずか2歳で亡くなりました
00:21:39目も見えず耳も聞こえず
00:21:44一言も話すことのないままでした
00:21:47亡くなった直後
00:21:53医師から原因究明のために
00:21:57涼子さんを解剖させてほしいと
00:21:59依頼されました
00:22:29とにかく人のために
00:22:33人のために10万円だけ
00:22:35涼子さんのすまんけどって
00:22:38承知していたんですよ
00:22:40今の男子が知りつめるのは
00:22:43今はもうないですけど
00:22:45今子供は小児科学かな
00:22:49あそこだったんですけど
00:22:52そこで解剖を知られて
00:22:57知らったと言って
00:22:58知らったとは見たことがないけど
00:23:00連れて来てくれちゃって行ったでしょ
00:23:04そしたら
00:23:06僕がですね
00:23:08腹が立ったのはすごくお医者さんです
00:23:11そこに置いてくれちゃって
00:23:13私は血のついた板間で
00:23:17ちょうど2つ置いて
00:23:22出番も打ちやさせぶ打ちや
00:23:25いっぱい置いて
00:23:265、6本のお医だったですね
00:23:28そこに乗せてくれるって
00:23:30お医者さんから言われて
00:23:32ほんと精神では人間じゃなかなって
00:23:35言ってから
00:23:36もう連れて帰ってやったんです
00:23:40お医者さんからも連れて帰ってやったんです
00:23:42もういなくなって
00:23:43死んでおるけ
00:23:44でもまた
00:23:45着手台も出して
00:23:47本当にこれやったんです
00:23:51頭包帯全部包帯してもらって
00:23:57目が腹
00:23:59目はもうお祝い売れですよね
00:24:02目玉も取ってあったんです
00:24:05目玉も取って包帯
00:24:07みんな包帯して
00:24:09着物が1枚持ってきて
00:24:11その着物をやっとって
00:24:13着物の教えで
00:24:15軽く若かった人間は
00:24:17抱いていることです
00:24:19その時はタクシーで帰ったんですけど
00:24:23月野良に来た時は
00:24:25もうそのタイトルが
00:24:27超重くなって
00:24:29やっぱりもう魂が入ったんですかね
00:24:32我が家帰って
00:24:33月野良が湯土地会見ですね
00:24:35軽く人形と同じでしたけど
00:24:39本当に泣かされることが多かったです
00:24:45リュウクは死んでから
00:24:49あんこ屋の背中で
00:24:53必ず夢の中で
00:24:55背中が重くなるんですよ
00:24:57そしたら
00:24:58日もしか
00:25:00日もしか
00:25:02背中で
00:25:09物も言うけど
00:25:11あんこは夢の中で
00:25:14それが前に
00:25:20というのが夢見するもんですけど
00:25:27水俣病の原因として
00:25:29窒素水俣工場からの
00:25:31排水が疑われました
00:25:35工場排水は当時
00:25:37水俣湾の最も奥の
00:25:39百建排水溝から
00:25:41海に流されていました
00:25:43漁民は排水で海が汚されていると繰り返し抗議していました
00:25:53太田恒夫さんは当時窒素水俣工場の西田工場長の秘書役でした漁民にせきたてられ排水溝周辺の様子を見に行きました
00:26:08何かこれはひょっとすりゃひょっとするなという感じを持ちました
00:26:15どうなってたんですか
00:26:16それに小さい小魚が死んでいて小さい貝がふっと蓋を開けているのを点々と見るようになりましたから
00:26:28これはひょっとそりゃひょっとするよという感じを持ちました
00:26:35それは西田さんに報告されたら西田さんに報告されたら西田さんに
00:26:39西田さんに報告されたら西田さんに
00:26:40西田さんに
00:26:41私は西田さんに
00:26:42西田さんに
00:26:43大げさに物言わないぞって言われたような感じがしますけどね
00:26:48その後に1週間ぐらいしてからまた船にさせて見に行っているんですもんね
00:26:56その時の時計さんが技術部長の時計さんなんかと一緒に行っていますよ
00:27:02歌くん君がいいほどではなかったぞそれは満潮の時に言ったりでそれは見えんですよと私はその時に言いました
00:27:13昭和34年7月熊本大学研究班が有機水銀説を発表しその発生源として工場が疑わしいと主張しました
00:27:25窒素は反論します
00:27:28私の方の工場の配置が疑われておりますけれど
00:27:37日本中には私の方と同じような仕事をしておる造業会社の工場が重視さございます
00:27:47医学の方では魚介の体内にあるある種の有機水銀が原因だと言っておられますが
00:27:57私の方の工場から出ますのは無機水銀である
00:28:00無機水銀がどうしてどういう経路で何によって有機水銀に勝つか
00:28:07こういうことは未だに究明されていない次第でございます
00:28:13この頃窒素の中ではミナマタ病の原因が窒素の工場排水によるものなのかどうか
00:28:24核心に迫る動物実験が行われていました
00:28:27窒素付属病院の院長細川一医師が
00:28:35工場排水を直接猫に与える実験を指示したのです
00:28:40小島照吉医師は当時細川院長の下で実験に携わっていました
00:28:50昭和34年10月
00:28:54排水を飲ませ始めてから2ヶ月半経った
00:28:58400号と呼ばれた猫が発症しました
00:29:01私らは結局朝行って挨拶しますね
00:29:10飼育がかかる人と
00:29:12これはどうしたのかと聞いたんです
00:29:15朝飯やった後にすぐ猫がけいれんを起こしてピョンピョン飛び出したとかね
00:29:23やっぱり出張ヨタヨタするわけですね
00:29:27あとやっぱり振りがあるわけです
00:29:30新鮮
00:29:31それがはっきりと言って元気はないし
00:29:34それからケイリンが来ましてね
00:29:381回来ましたか
00:29:40それで細川先生に連絡して
00:29:46実験のデータは当時の市川忠史技術部次長に届けられました
00:29:55市川さんは西田工場長から有機水銀説に反論する窒素の見解書の作成を命じられていました
00:30:05実験データをもらいまして
00:30:14それを整理していたわけなんです
00:30:19そうしましたらね
00:30:22その中には1匹症状のおかしな猫がありましてね
00:30:27これをこのまま乗せれば誤解を招くと思いましたんで
00:30:32それはですね
00:30:34この実験は実験例が1つしかなくて
00:30:38結果が正しいかどうか
00:30:42一例だけでは分からないから
00:30:43これ自分としてはですね
00:30:47この一例を見解書に載せる
00:30:51載せたくはないんで
00:30:53もっと実験を重ねてですね
00:30:56正しいかどうかが分かってから
00:30:59見解書に載せましょうって言葉を細川さんに言ったわけなんです
00:31:04細川委員長はこの後も実験を続けることを条件に
00:31:12市川さんの提案を受け入れました
00:31:14猫400号はこの時
00:31:18見解書から外されることになりました
00:31:21会社が都合が悪いから外したんだっていう
00:31:29そういう噂が飛びましたね
00:31:31それは全く違うんであって
00:31:36私と細川さんの意思で
00:31:38むしろ私の意思だったかも分かりませんが
00:31:42外したわけです
00:31:43その時に外す判断をしたことについては
00:31:50どう思いますか
00:31:53私は正しかったと思いますね
00:31:56例えば一例でもってね
00:31:59判断するっていうのは非常に危険ですからね
00:32:02実験を繰り返して結果を得てから
00:32:05発表すべきであってですね
00:32:07一例で発表するっていうのは非常に危険だと思います
00:32:13昭和34年11月
00:32:23生活に行き詰まった患者たちは
00:32:26窒素に1人当たり300万円の保証金を求めました
00:32:31しかし窒素は
00:32:34原因が工場排水かどうか確認されていないと拒否
00:32:39患者たちは雪がちらつく中
00:32:43工場正門前にテントを張り
00:32:46およそ1ヶ月間座り込みました
00:32:48保証金問題よりもとにかく謝ってもらえたっていうのが
00:32:56シェイパーですけど
00:32:57全然違う違うの言ってもらえたしは
00:33:01もうそら強かったっけですね
00:33:04強かった?
00:33:05うん
00:33:06地質の方が強かった
00:33:07その時に市長さんもみんな反対だったけど
00:33:18市長さんのところは私も一緒に
00:33:21みんなについて小分かる手についていったんですよ
00:33:24それは強かったっけですね
00:33:27こういう審査だって机があったら両足出してこうやって返事しなかった
00:33:35橋本市長は
00:33:37市長が
00:33:37もう座る込み辞めてもらえなくてもらって
00:33:42みんなまたイメージが悪かったりして
00:33:45ちょうど駅の前だから降りてきた時そうやってみんな
00:33:55地質を迷すわずって言ったら
00:33:57ほんとも嫌らせよ
00:34:00みんなから嫌わるけどそれだけ辞めてくれやったけど
00:34:03地質が謝るまでは絶対できんじて座り込みを続けたんですけど
00:34:09市民の人も見てますよね
00:34:12市民の人たちを振り返るもんですか
00:34:16絶対あそこ迷いたくて誰一人
00:34:19頑張らんのという声は一言もなかったです
00:34:24そして12月30日
00:34:29患者と窒素は未満金契約を結びます
00:34:33窒素が工場が原因とは認めなかったため
00:34:38保証金ではなく未満金という位置づけでした
00:34:42亡くなった人への懲役金は30万円
00:34:50そして将来
00:34:58原因が工場排水と決定しても
00:35:01新たな保証の要求は一切行わないという条項が入っていました
00:35:07国も有効な対策を取りませんでした
00:35:18昭和34年11月
00:35:22厚生省の食品衛生調査会
00:35:25水俣食中毒部会は
00:35:27水俣病の主因はある種の有機水銀化合物であると
00:35:32厚生大臣に答申しました
00:35:34翌日
00:35:37この答申が報告された閣議で
00:35:39池田駿通産大臣は
00:35:42有機水銀が水俣工場から流れ出していると結論づけるのは
00:35:48想定であると発言
00:35:49水俣食中毒部会は突如解散となりました
00:35:54その後水俣病対策は水質保全法を所管する経済企画庁へと移ります
00:36:04当時経済企画庁の課長補佐だった久美田卓三さんは
00:36:13通産省から出向し対策の原案を作っていました
00:36:17水産庁は止めろという議論はありました
00:36:26その他の我々の家内の中でも止められないんじゃないかと
00:36:37その止められないで最善の方法しかないんじゃないかという議論もありましたね
00:36:44高度成長期の夏祭中というか走りぐらいのところで
00:36:54追い越しを追いつけの時代だったわけですよね
00:36:57だから産業性善説ですよ
00:37:02産業性善説
00:37:03漁業は産業じゃないとは言わないけど
00:37:06産業性善説だったりね
00:37:08しょうがないんじゃない
00:37:09しょうがないなんて言うと怒られるけど
00:37:12そういう時代だったんだと言わざるを得ない
00:37:16それに時代に負けてね
00:37:18それを担当する役人がね
00:37:20何もしなかったんじゃないかと
00:37:22言われればもう謝るしかないんだよ
00:37:24謝るしかない
00:37:25ある程度分かっててやってるんだ
00:37:27なんていうのかな
00:37:28確信犯だな意味では
00:37:30僕は確信犯だと思うねこれは
00:37:36昭和35年池田勇人首相は
00:37:4510年間で所得を倍増させるという
00:37:48所得倍増計画を唱えました
00:37:50日本は年10%の経済成長を続けます
00:37:55日本の経済はどんどん伸びていっておりますのから
00:38:02この伸び方を正常化するために
00:38:06措置を取ったんであって
00:38:07根本の所得倍増計画というのは
00:38:10絶対に正しかった
00:38:12正しいものであるようにすることを
00:38:15断言いたしたいと思います
00:38:17窒素は高度経済成長の波に乗って
00:38:23拡大を続けていきます
00:38:24窒素は水俣の町の形成にも
00:38:30深く関わっていました
00:38:31幹部たちは古くから武家屋敷がある
00:38:37水俣の陣内地区に住みました
00:38:40垣根に囲まれた一戸建ての社宅が
00:38:44整然と立ち並びました
00:38:45一般の従業員は工場近くの
00:38:50長屋のような社宅に住みました
00:38:52さらにその周辺に
00:38:58漁民や農民たちが住んでいました
00:39:00窒素は工場を中心に
00:39:04一大企業浄化町を築き上げていきました
00:39:07水俣では人口のおよそ半数が
00:39:18窒素と関係があるといわれています
00:39:20窒素の社員たちは
00:39:23水俣病とどう向き合ってきたのでしょうか
00:39:26昭和21年に15歳で窒素に入った
00:39:37島田勝さん
00:39:38工場再建に携わった後
00:39:42製品分析の仕事に就いていました
00:39:44最初に患者さんが出た時に
00:39:50原因というのはどういう風に思っていましたか
00:39:53僕らは別に考えるんだったけどね
00:39:59ただ魚が何頃鯛とかあれが
00:40:04上に浮いて来たつ場が食うて
00:40:06病気になったという患者さんなんか聞いたたいな
00:40:09特に漁師さんなんか
00:40:10親方なんかに
00:40:12鯛が舞踊ったら取ってきたと
00:40:16それに食うたたになったって聞いたでしょ
00:40:19何でやろうかなと言ったわけ
00:40:23なんか外側が見えんじゃったかもしれないみたいな
00:40:27製品分析一生懸命でね
00:40:30そういう点はある
00:40:33常識知らず言えば常識知らず
00:40:37窒素の中では
00:40:42水俣病の原因を調べる研究が続けられていました
00:40:46工場排水の中に有機水銀が含まれているかどうか
00:40:53検証する実験も行われました
00:40:55有機水銀の結晶が取り出されなければ
00:41:00会社が主張する無機水銀しか排出されていないことが
00:41:05裏付けられます
00:41:06山下義博さんは
00:41:17水俣病が公式確認された
00:41:20昭和31年に窒素に入りました
00:41:23当時15歳
00:41:25父親も窒素社員でした
00:41:28山下さんは研究室に配属されました
00:41:33山下さんは
00:41:57水俣病の原因は窒素ではないと信じていました
00:42:01入社から5年ほど経ったある日
00:42:05同僚から工場排水から抽出した有機水銀だと
00:42:10ビーカーを見せられました
00:42:12やっぱり窒素が原因だったのかと
00:42:16その時はやっぱりショックですよね
00:42:18今まで自分たちは窒素と思っていなかったのが
00:42:21窒素ということですね
00:42:22その時はやっぱり話したい衝動はありますけど
00:42:27それを話すと組になると
00:42:30企業秘密を漏らすと
00:42:32いうので話していなかったんですけども
00:42:36それはそういう教育
00:42:37やっぱり教育もあったし
00:42:40従業員自身も愛車精神というかですね
00:42:43そういうのを守っていたというか
00:42:47自分のあれを
00:42:49首を守るためにした
00:42:51保身のあれかもしれませんけれども
00:42:53工場内であったことをベラベラ外でしゃべるということはなかったというかですね
00:42:58昭和37年
00:43:08母親の対番は毒物を通さないという
00:43:12医学界の常識を覆す論文が
00:43:15熊本大学の原田正澄医師によって発表されます
00:43:19水俣病の多発地域では
00:43:25生まれながらに障害のある子どもたちが
00:43:28次々に生まれていました
00:43:30当初
00:43:32原因不明の脳性症に麻痺と診断されていました
00:43:36しかし原田さんは
00:43:38この子どもたちが
00:43:40母親の体内で水銀に侵された
00:43:43胎児性水俣病であることを証明します
00:43:46坂本忍さんもその一人です
00:43:51水俣病多発地域の一つ
00:44:10水俣市湯道地区
00:44:12坂本忍さんは
00:44:24水俣病が公式に確認された
00:44:27昭和31年に生まれました
00:44:29今56歳です
00:44:33水俣病多発地の一つ
00:45:03自分が港に病院にならなきゃいけないのかと思った
00:45:19お母さんのことを恨んだこともある
00:45:30というのは
00:45:32やっぱりどうして私が産んだようだなと
00:45:44思ったときもあった
00:45:49どうして私を産んだのかなと思ったときもあった
00:46:01忍さんの姉真由美さんは2歳で発病
00:46:11その1年半後に亡くなりました
00:46:16母親の坂本藤恵さんにとって
00:46:21真由美さんは結婚から8年目にして生まれた
00:46:25待望の命でした
00:46:27私は真由美がときなのが
00:46:35奇病やで病名が分かればよなと思ってた
00:46:38まだ私もとさわっかしよう
00:46:4031やで
00:46:42死なせずに
00:46:45生きらかすとかんばいかん
00:46:48あと病名が分かれば
00:46:51薬注射が出てくる
00:46:53それとよなって思ってた
00:46:54やっぱりその頃は
00:46:58男たち忍たちが
00:47:03生まれてからずっと何にもって
00:47:08病院にやっぱり連れて回るじゃん
00:47:10普通でなければ
00:47:134ヶ月くらいになって首が座らん
00:47:166ヶ月くらいになって座らんとかになれば
00:47:20町の病院もずっと回ったときに
00:47:24脳性小児麻痺ってあるもんなどこでも
00:47:27やっぱり素人ながら
00:47:29なんでって思うがな
00:47:31海岸畑ばっかりなんで小児麻痺が丸とや
00:47:35またこの小児麻痺でも
00:47:37奇病患者の家族になんで丸とやって私も思うもんね
00:47:42アイミが一番じゃんで
00:47:43私忍が二番目やで
00:47:47お母さんとしてはどんなお気持ちだったんですか
00:47:51忍さんがそういう症状が出てたときですね
00:48:00やっぱり一番の二人したときは
00:48:03何とも言えないとたいな
00:48:10人事じゃなくて自分の身になれば
00:48:13私はいつも大臣になってきたときに
00:48:17人事と思って聞けば
00:48:20あれだから自分の家族とか
00:48:23自分の子供と思って聞いてください
00:48:26っていうことで私はいつもいいよと
00:48:29お金と変えられるもんじゃなかったじゃん
00:48:31人間の命は
00:48:34排水が流された百軒排水口からほど近い
00:48:47水俣市明神町です
00:49:04金子住子さん82歳
00:49:08水俣病患者です
00:49:10金子さんは夫を激症の水俣病で亡くしました
00:49:163人の子供たちも次々と発病しました
00:49:30夫は窒素の関連会社で働いていました
00:49:33最初に発病したのは2歳の長男でした
00:49:40その後間もなく次男が生まれます
00:49:45次男が20日目で死んだでしょうか
00:49:54それもですね
00:49:58熱がちょっと出て
00:50:00痙攣板に2回したでしょうか
00:50:02それはもう私が抱っこみ
00:50:05私の懐で生きるね
00:50:08あれしたけど
00:50:09その時も夫の福江さんに走り込んだんですよ
00:50:12病院
00:50:13朝からですね
00:50:14であらこれ
00:50:16朝のうちに注射はしとけばよかったねって言われて
00:50:20これ注射したちはもう障害だもんね
00:50:25でもう仕方の中で吸わねて
00:50:29もう土源だったんですよね
00:50:32もうカウントの顔が描いておったけど
00:50:34で夕方引きとって
00:50:36行きは切れたんですよ
00:50:38夫も発病
00:50:43激しい痙攣に苦しみながら1年後に亡くなりました
00:50:48その3か月後に生まれたのが
00:50:53ゆうじさん
00:50:54胎児性水俣病患者です
00:50:5757歳です
00:51:00住子さんは飲食店などで働きながら
00:51:16女手一つでゆうじさんたちを育ててきました
00:51:19住子さんはゆうじさんが生まれた時のことを鮮明に記憶しています
00:51:43だけどばあちゃんの頑張れよって1人で寂しい思いをするからそこでだったんですよ
00:51:53やっぱりそれで火の春吹っ飛ば舞ったんですよね
00:51:58火の春首が
00:52:00第一首ですよね
00:52:04首が座らなかったから
00:52:05やっぱり自分が思った通りだったと思ったってそこで
00:52:10その時はどんなお気持ちいいんですか?
00:52:11情けんな顔ってある先でしょね
00:52:17あの時諦めとけばよかったって
00:52:20自分が自分ですげー思ったわけですよ
00:52:23昭和43年5月
00:52:30製造工程で有機水銀が出るアセトアルデヒドの製造が終了
00:52:36有機水銀を含む工場排水は止まりました
00:52:40国が水俣病を公害病と認定し
00:52:47窒素が原因起業と確定したのは
00:52:50工場排水が止まって4ヶ月後のことでした
00:52:54水俣病の公式確認から12年がたっていました
00:53:00東京丸の内
00:53:13窒素本社
00:53:14後藤俊基地窒素取締役最高顧問です
00:53:28今回初めてテレビの単独インタビューに応じました
00:53:33当時の窒素としての判断をどう考えているか聞きました
00:53:39当時の人が判断したことでありますので
00:53:47今私の立場でそれをどうこう言おうとは思います
00:53:55我が社が生産をしなくなれば
00:54:01客先が困るでしょうし
00:54:07それからそういったサプライチェーンの問題もありますし
00:54:13そういうことを
00:54:18だからといって絶対止められなかったかといえば
00:54:23そんなこともないんじゃないかと思いますが
00:54:27それで大丈夫だという判断があったんじゃないかと思いますね
00:54:31非常に重要な製品を作っていたわけですから
00:54:40持ち所だけで決められる問題でもなかったという
00:54:45いやーおっしゃっている意味がですね
00:54:49役所に相談したらやれと言われたかとか
00:54:52そういう意味でしたらそういうことはなかったと思いますね
00:54:56我が社の判断でそういうようにしてきゃだと
00:55:03だから安全についてはくれぐれも注意をしながら
00:55:08生産を継続したわけですから
00:55:16そこに振り返ってみて
00:55:24不完全な点が生じていなかったとは言えませんですね
00:55:31特に原因発生期においては社会情勢がですね
00:55:37先ほど言ったような社会情勢で
00:55:40生産が非常に重視で
00:55:43分かっててやったってわけじゃありませんから
00:55:46それは彼に少し疑わしいというようなことを
00:55:52工場の中のことを知らない人が言ったからといってですね
00:55:56ああそうですかって工場を止めたりですね
00:55:59だから止めるとしてもどこを止めてもいいか分からない段階でですね
00:56:05なんかそのじゃあ工場全体をスパッと止められるかといえばですね
00:56:12それは私はできなかったと思いますね
00:56:15自分がやってできないことを先輩がやらなかったからといって
00:56:21覚悟をとやかく言うというようなことでなくてですね
00:56:26やっぱり自分が周り合わせで自分の前へ来た
00:56:30自分の仕事をですね
00:56:32誠実にやると
00:56:33これしかないと
00:56:35昭和43年8月
00:56:40窒素の労働組合は恥宣言を出しました
00:56:44患者に対して何もしてこなかったことを恥とし
00:56:50水俣病と戦うと支援を打ち出したのです
00:56:53会社の労働者に対する仕打ちは
00:56:58水俣病に対する仕打ちそのものである
00:57:01今まで水俣病と戦い得なかったことは
00:57:06まさに人間として労働者として恥ずかしいことであり
00:57:11心から反省しなければならない
00:57:14恥宣言の背景には
00:57:186年前の賃金やストケンをめぐる
00:57:22大規模な労働葬儀がありました
00:57:24葬儀の中
00:57:26会社側に理解を示す新たな労働組合が結成され
00:57:30従業員が分裂し激しく対立しました
00:57:34葬儀が収束した後
00:57:43会社側と対立した組合員の多くは
00:57:47すぐには元の職場に戻れませんでした
00:57:50工場の外での沼地の埋め立てや
00:57:53単純な資料整理などに配置されました
00:57:56製品分析を担当していた島田雅さんは
00:58:03ドラム缶洗浄に配置替えされました
00:58:06島田さんは組合の恥宣言にすぐに同意しました
00:58:22企業の厚い壁を体験し
00:58:24さらにこの頃自身の体調も崩し
00:58:28考え方に変化が生じていたのです
00:58:30有機溶剤中毒の典型的です
00:58:39まず喉をやられ
00:58:41そして肝臓をやられ
00:58:44病気になって
00:58:45もちろん水俣病も排液ですけど
00:58:49我々も使う原料から有機溶剤をずっと使っているからね
00:58:53自分の体をいかれたとながら
00:58:56やっぱりいじめられているのは我々だけではないと言う
00:59:01水俣病の漁業医者にもそういう痛みを与えていたと
00:59:09やっぱり我々もとことんいじめられたけども
00:59:13やっぱり自分でそういうふうにして
00:59:16その時は自分だけの戦いと思ったけど
00:59:21さっき言ったように入院してみて
00:59:25ああ俺もこれは同じ
00:59:28弱い立場から見るでも
00:59:32考えるといかんなっていう気持ちになったよね
00:59:37自分が犯されてみてね
00:59:40病気に病に犯されてみて
00:59:43窒素社内で
00:59:50水俣病の原因が工場排水かどうか研究していた
00:59:54山下義博さんです
00:59:56私の心の中にはですね
01:00:03工場内で実際水俣病の研究していて
01:00:08その研究が反論のための研究だったと
01:00:13実際その原因中には分かったんだけど
01:00:16公害するとクビになるという
01:00:19それでできなかったと
01:00:22それがやっぱり地層が原因だということは
01:00:28やっぱりはっきり言うべきだというのと
01:00:31それとやっぱり患者さんの苦しみと
01:00:36労働者の苦しみ一緒じゃないかというかですね
01:00:38やっぱり差別される側というか
01:00:40そういうのもあったというふうに思いますですね
01:00:42漁民の人たちは自分たちが座り込みとかね
01:00:47工場に乱入とかいろいろあったりしましたけれども
01:00:51労働者と患者さんの共闘というのはできてなかったんですよね
01:00:55共に戦うというのは
01:00:57この恥宣言でやってこう
01:00:59患者さんたちと共闘できる
01:01:02位置についたのかなというふうに思いますですね
01:01:07昭和44年6月
01:01:1328世帯112人の患者家族が裁判に踏み切りました
01:01:19市民のおよそ半数が窒素と関係があるという水俣で訴訟を起こすことは勇気がいることでした
01:01:27その時は何のために戦おうというお気持ちだったんですか
01:01:38私はその時は忍がおったもんね
01:01:41前身は死んだばって忍がおったもんね
01:01:43私がとは全然自分の水俣病人に認定したということは聞いてな
01:01:50おったばってん別に頭になかんもね
01:01:53私は忍がってばっかり叩くことは思うと思う
01:01:57忍はどけにしても自分で働かれんとだから
01:02:02要なればよくて
01:02:04要なればなし悪くはなっていちゃう
01:02:07生活のできるお金を勝ち取らんば生活はできないと思うと
01:02:13だが見るにしてもなのが施設に入るにしても
01:02:19兄弟が見るにしても
01:02:22お金があれば見ることができるわって
01:02:26全然お金がなからんば見る人は
01:02:30苦になるじゃんやっぱり苦になるじゃん
01:02:37裁判の中で過失を否定する窒素に対し
01:02:41患者たちは翌年、人株株主となって
01:02:45大阪で開かれた窒素株主総会に行きました
01:02:51私は当社取島役副 walls社長、江田白代田君
01:02:59perform 放表者、異の言葉がある
01:03:02東北市の担当事業を手をつけた日に獲능
01:03:16イケース!
01:03:21裁判や株主総会などでの患者の行動に対し市民の間から批判の声が強まります
01:03:31患者を非難し窒素を擁護するビラが新聞の折り込みやポストに入れられました
01:03:46水又病という病名のせいで商店街や旅館の売り上げが落ち込んでいると病名変更運動も起こりました
01:03:56昭和46年には水又を明るくする市民大会が開かれおよそ1500人が集まりました
01:04:08当時の府家正元水又市長は窒素を守るためには全国の世論を敵に回してでも戦うと挨拶しました
01:04:34水又市の湯ノ湖温泉です
01:04:36知らぬい海で採れる海の幸を売りにしていた旅館では
01:04:54水又病が報道される度に客足が遠のき経営が圧迫されてきたといいます
01:05:01温泉旅館を経営する松永康成さんも当時水又を明るくする市民大会に参加しました
01:05:14接待があったりとかですね
01:05:21やっぱり本当に窒素さんのお客さんも結構多かったですから
01:05:28お客さんの接待なんかにはですね
01:05:31湯ノ湖温泉を使ってあったと思います
01:05:33その市民の参加されている市民の方々っていうのは
01:05:37怒りの矛先っていうのはどこに?
01:05:40あのですねこれはその怒りの矛先っていうのは
01:05:46その頃はやっぱしある意味じゃ患者さんに向いてたんじゃないんですか
01:05:53っていうのが患者さんが騒ぐもんだからという意識が
01:05:58患者さんが騒ぐもんだから
01:06:01そのいろんな部分でマスコミもそれを取り上げる
01:06:07だから本当にもう少しさっきからずっと
01:06:11私の考えですよ
01:06:13旅館がお客さんが少なくなるのも
01:06:18騒ぐから騒いで取り上げられるから
01:06:22知らなくてもいいことまで皆さん知ってきて
01:06:26敬遠するという原因でお客さんが減ってきた
01:06:29でやっぱりその頃は保障の問題だとか
01:06:34いろんな問題があって
01:06:36騒ぐもんだからやっぱり水俣市自体が
01:06:40いろいろと対立中華ですね
01:06:47そういうことをしていったために
01:06:51本当に解決をしてくれというのもあったかもしれないし
01:06:55一つはもう騒ぐだっていうような部分もあったんじゃないかなと思いますけどね
01:07:01窒素にきちんと保障しろとか
01:07:04窒素のせいでこうなったんだっていうのは考えはなかったですか
01:07:08あのですねえっとそれはね
01:07:11気持ちの中であったかもしれませんけども
01:07:15さっき言った利害関係ですよ
01:07:18あのやっぱし
01:07:20窒素の窒素があるために
01:07:24水俣の商店街とかっていうのを恩恵受けてた部分ってあると思います
01:07:28それで湯の子も叱り
01:07:33それで気持ちの中では
01:07:36早く解決しなさいよって言っても
01:07:39思ってたって言えませんよね
01:07:42その時代中が
01:07:43坂本美佐子さんは
01:07:54夫が窒素の従業員でした
01:07:56坂本さん自身も
01:07:59府警市長が窒素擁護を宣言した大会に参加していました
01:08:04であの反対じゃなかったって思うですよ
01:08:18府警さんがそう言うのには
01:08:19やっぱちっそい用語だからね
01:08:21そうかちって
01:08:24水俣を切り捨ててよかちうわけではないですよ
01:08:28何回も言うように
01:08:30あの人たちはあの人たちで
01:08:31やっぱり立っていくように
01:08:33一緒にはならんと当たり前の話だから
01:08:35そうかちって
01:08:38水俣病が出たから
01:08:40もう実際は潰してしなれば
01:08:43全滅じゃないですか
01:08:45労働創業の時の考えと同じ
01:08:51生活ができなくなるでしょ
01:08:54だけど
01:08:57水俣病にかかった人は
01:09:01水俣市全体が
01:09:02そうなったわけじゃないんだから
01:09:03ある一部分でしょ
01:09:06でそういう一部分の人ね
01:09:08国からきちっとした保障のあれが出れば
01:09:11そういうをしてもらって
01:09:13残った人は残った人で
01:09:15やっぱり実は私は
01:09:17していくべきだと思います
01:09:19今でも変わりません
01:09:21実は大切に私は思っています
01:09:24昭和48年
01:09:32水俣病第一次訴訟の判決が出ました
01:09:36患者
01:09:38消臭
01:09:39患者側の主張がほぼ全面的に認められました
01:09:44集まった人たちを前に
01:09:52坂本忍さんの母
01:09:53藤江さんは訴えました
01:09:55本当にありがとうございました
01:09:59ここまで私たち判決まで
01:10:02いろいろお世話になりました
01:10:04しかし判決が出て金額は出ました
01:10:08私の長女
01:10:09毎日の命の値段は決まりました
01:10:13しかし2番目の最低の死の子
01:10:17死の子の金額も出ました
01:10:20しかし死の子の古い死にで
01:10:23良くなりません
01:10:26だからこの生きている
01:10:29水俣病患者の生きるために
01:10:33私たちは今からの仕事が残っておりますので
01:10:37今後とも最後まで
01:10:39患者の生きておる限り
01:10:41支援をお願いします
01:10:43よろしくお願いします
01:10:44拍手
01:10:46拍手
01:10:48拍手
01:10:50拍手
01:10:51拍手
01:11:03拍手
01:11:04拍手
01:11:05拍手
01:11:06拍手
01:11:09嬉しくなかった
01:11:10私たちがパラダルバニラにあって
01:11:29俺たちの音の準備だった
01:11:35俺たちの音と自分の俺たちの音と全然テレビだと思った
01:11:53これからのことっていうのは?
01:11:56ドランの音を取った
01:12:04あたって命だ
01:12:13あれだと思う
01:12:18命って
01:12:21
01:12:23おたれや
01:12:27絶対に
01:12:29あれだと思う
01:12:33命や
01:12:38ぶっても
01:12:48命はお金では変えられないと思う
01:12:58命はお金では変えられないと思う
01:13:03うん
01:13:05おた…
01:13:07お…おたれさんも
01:13:10一番良いおたれって
01:13:15命だったよりは
01:13:21おねえたらおねえた
01:13:26命とれば
01:13:29おたれさんだって
01:13:32思う
01:13:35命が
01:13:38早いんだって
01:13:42思う
01:13:44何でも
01:13:45水俣病かどうかは医師で構成される認定審査会で決められます
01:13:57第一次訴訟で患者が消訴すると、水俣病の認定申請者が急増します
01:14:03水俣病には特徴的な4つの症状があります
01:14:10視野が狭くなる視野強作
01:14:14聴力障害
01:14:16手足の末端の感覚が麻痺するなどの感覚障害
01:14:20そして、言語や歩行の障害などの運動失調です
01:14:24昭和52年、国は、複数の症状がなければ、水俣病と認めないという、52年判断条件を示しました
01:14:40以降、現在まで、認定審査会での帰却や保留が相次ぎます
01:14:52これまでに水俣病に認定された人は、およそ2300人
01:14:58申請した人は、2万9000人です
01:15:02どこまでを水俣病と認めるのか
01:15:05その線引きをめぐって、今に至るまで、議論が続いています
01:15:15なぜ、52年判断条件を示すに至ったのでしょうか
01:15:22元認定審査会委員で、52年判断条件を作成した1人
01:15:40医師の井方昭弘さんです
01:15:42今回、10年ぶりにテレビの取材を受けました
01:15:52一つは、46年から先に病像が変わってきたんですね
01:15:58これはちょっと、私もよく分からない
01:16:0146年の頃は、比較的分かりやすかった
01:16:03それから、あんまり症状に変動もなかったし
01:16:08ところが、それから病像がかなり荒れしてきて
01:16:12症状が変動することもあるし、また、何て言いますかね
01:16:18地発性といっても、汚染が過ぎてから痺れ出したという人を
01:16:25どう考えるかですね
01:16:27これは非常に難しい問題を課せられたと思います
01:16:30言い換えると、グレーソンの症状を訴える人が多くなったということですか
01:16:38はい、それは、やはり現実に
01:16:42ミナマト病かもしれないけども
01:16:45どこもミナマト病には自信がないと
01:16:48さりとて、全く素人が言い切れないという回想が膨らんだ
01:16:52そうすると、あえてその
01:16:5452年判断条件というのは、厳しくくくろうとしたものではなかったということですか
01:16:58そういう意図はなかった
01:17:01結果としては批判を受けちゃったから
01:17:04一部には、チストに対する配慮みたいなものがあるのではないかみたいなことも
01:17:15そういう気持ちは全くありません
01:17:19何回も言いますけど、やっぱり
01:17:22広範な地域汚染によるあれは、線引きは無理、もとから
01:17:27もちろん重症者は分かってますよ
01:17:30それは救済は済んでいるわけ
01:17:32重症者はもう症状が典型的ですから、それを見落とすことはまずない
01:17:37問題は軽症者だね、それをどうするかっていうのはね
01:17:40平成21年、水俣病特別措置法が成立
01:17:50被害を訴えながら、国の基準では認定されない人たちを救済し
01:17:56最終解決を目指すと謳っています
01:17:59患者たちが求めてきた、白ぬい海沿岸全住民の健康調査は、今回も見送られました
01:18:09特別措置法が定めた救済申請の受付は、去年7月に締め切られました
01:18:17国の予想をはるかに超える6万人以上が申請
01:18:25申請者が救済の対象になるかどうかの判断を、ことし秋までに終了するとしています
01:18:34特別措置法には、もう一つ重要な項目が盛り込まれていました
01:18:47窒素の分社化です
01:18:50平成23年、窒素は持株会社としての窒素と、すべての事業を引き継ぐ新会社、JNCとに分かれました
01:19:03患者への保障などは、引き続き窒素が行います
01:19:09事業会社、JNCには、加害責任はありません
01:19:14水俣病患者の荒木陽子さんです
01:19:22荒木さんは、分社化によっていずれ窒素が消滅し、加害責任を問えなくなるのではないかと危惧しています
01:19:33やっぱりだから窒素が逃げ口を作ったって、さっきも言いましたように
01:19:37そんなことしていない、ちゃんと患者さんのことは、保障はちゃんとやりますって、今まで通りと言うんですけど
01:19:46実際、別に作ったじゃないですかね
01:19:49それと関係ないと言いますけど
01:19:52不安ですよ、患者としては
01:19:55その別に、作ったということがですね、患者は
01:20:00不安
01:20:01どういう不安なんですか?
01:20:05患者がおる限り、保障はしていただきたいんだけど、保障がどこまでできるのかなと思ってですね
01:20:14患者の保障はちゃんとしますって、地層が言うんですよ
01:20:19だけど、どこまでできるのかな、だんだん逃げ道を作るようですから
01:20:23別の会社になって
01:20:27別の会社になって
01:20:30はい
01:20:32みんな不安だと思いますよ、他の方も
01:20:35特別措置法では、窒素が、新会社JNCの株式の売却益で、みなまた病被害に対するすべての支払い責任を果たすことを定めています
01:20:55何かを決めるのか?
01:21:02いや、それは、一応、この文社化は終わってるわけで、あと、あの、法律で予定されているのは、まあ、これを上場して、それで、
01:21:17まあ、そこで、まあ、そのJNCの金融価値が、まあ、監禁されるわけですから、それで、まあ、将来の、さっき言った認定患者さんに対する補償金をはじめ、そういった補償金を積み立てると、で、これを確保して、
01:21:46これを確保し、それから、残り、まだ訴訟等が残っておれば、そういったものにも対応して、えー、まあ、ことがだいたい収まれば、まあ、政府への借金返済をするというようなことが、一応、予定はされていますけども
01:22:11あの、その文社化についてなんですけども、神田団体からの声としては、その、窒素の加害責任が、まあ、消滅するんじゃないかという心配の声があるかと思う、その声に対してはどのように、
01:22:26消滅するって、全財産をそれに継ぎ込むわけですから、消滅もしないし、
01:22:38まあ、そう、そういうことで、判断していただいたら、おのつと答えは明らかだと思うんですけどね。
01:22:52いや、もう、反対のための反対は、いろいろなことは、出てきますですよ。
01:22:59患者さんとおっしゃるけど、患者さんはみんな、そんなことを思ってられるの?
01:23:08患者さんも、まあ、一部とか、市民も、いろいろな市民がおられるし、患者さんも、いろいろな市民がおっしゃるから、
01:23:17そういう中で、そういう意見の方も、あるということじゃないですか。
01:23:23患者さんがこう思っているって言い方は、やめてくださいよ。
01:23:29水俣氏は、今、もやい直しを歌っています。
01:23:38もやうとは、船と船とを結ぶことです。
01:23:43患者、社員、一般市民、それぞれの間に生まれた深い溝を埋め、
01:23:50新たな絆を結んでいくことを目指しています。
01:23:53窒素で、水俣病の原因究明の研究をしていた、山下義博さんです。
01:24:03この日は、胎児性患者などが集う施設、ホットハウスを訪れました。
01:24:08山下さんは、窒素の社員でありながらも、患者を支援する市民グループに参加。
01:24:32窒素の株主総会に同行したり、患者たちの裁判に通い続けたりしてきました。
01:24:48山下さんは、窒素を定年退職した後、一人の市民として患者との交流を続けています。
01:24:56階段が中しね。そう、すっきゃ早いけどね。
01:25:01もう帰ってるんでね。
01:25:03金子さん、今晩行きましたら、お母さん、あと家の人、会議をしましょうね。
01:25:17行って、いってらっしゃい。
01:25:19行って、いってらっしゃい。
01:25:19行って、行ってきまーす。
01:25:20はい、行って、いって。
01:25:21お荷物さん、いいのかな?
01:25:22何かいい?何かいい?
01:25:26水俣市、明神町。
01:25:43ここに、自分の家族が水俣病だったことを、40年間隠し続けた人がいます。
01:25:49吉永理美子さんは、漁師の祖父と窒素で働く父を、激小の水俣病で亡くしました。
01:26:02私の父です。
01:26:07小層に勤めてた時の、こちら側にですね、仲間の一緒に働いてた方たちが映ってらっしゃるんです。
01:26:16それを、父だけ取ってもらって、父とはそんな話をしたことはないけど、やっぱり自分の仕事っていうのを誇りにやってたんじゃないかなっていうのを思うからですね。
01:26:33えっと、こういった現場で働いてる。
01:26:40そんなも作業着なんですよね。
01:26:44父の水俣病を、差別を恐れて沈黙していた吉永さん。
01:26:53吉永さんは、40年を経てようやく、水俣病と向き合えるようになりました。
01:27:00水俣病の人たちがいると、自分たちの生活を脅かす存在だっていうふうに言われてしまうと、
01:27:14自分たちの存在自体が私はもう申し訳ないなっていうようなことに思うわけですよね。
01:27:22だから、それはやっぱり直接的ないじめよりも、団体でいじめられるっていうか、
01:27:34差別されるっていうようなことにやっぱりつながってたんだと思うんですよね。
01:27:40それがやっぱり水俣病っていうのは、やっぱり一つは一番怖かったし苦しかったとこですよね。
01:27:52それは反対に今度は、私たちをそういうふうに思ってた水俣の市民の存在、市民の人たちっていうのは、
01:28:03今度は水俣から外に一歩出れば、反対に水俣以外の人たちからそう言われるわけですよ。
01:28:12水俣の人たちは水俣病だろうっていうので言われるわけですよ。
01:28:17やっぱり今度は、私と同じような立場に今度は水俣の人たちがなっていくわけですよね。
01:28:27だから二重に三重に苦しみがどんどん広がっていくっていうか、
01:28:35そんなことになってしまったですよね。
01:28:39戦後68年、復興と成長を目指し突き進んだ日本。
01:28:49その陰で生まれた水俣病という大きな代償は、地域に深く刻み込まれ、消えることはありません。
01:28:59ご視聴ありがとうございました。
01:29:29北海道の釧路湿原。
01:29:33鶴のふるさとは、戦後、落農の村として生きることに希望を託します。
01:29:39国策の下、湿原を開発し、規模拡大に突き進んだ村の人たち。
01:29:47農業開発と環境保護、国策に翻弄されたある村の軌跡です。
01:29:52ご視聴ありがとうございました。

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