国民の生存権を保障する新憲法25条のもとスタートした戦後日本。しかし、生活保護の充実を求め1957年に起こされた「朝日訴訟」の敗訴や、高度経済成長期の1965年に打ち切られた国の貧困調査など、「一億層中流」意識が広がる中、貧困問題は見過ごされていく。そしてバブル崩壊後、非正規雇用が増加し続け、ついに2012年には6人に1人が貧困という状態に。官僚や研究者、市民の証言をもとに格差と貧困の戦後史に迫る。
カテゴリ
🗞
ニューストランスクリプション
00:00:00大阪 日雇い労働者の町 釜ヶ崎
00:00:17道端に病気で倒れた人がいました
00:00:23この町ではその日の食べ物や薬が買えない人が多くいます
00:00:31今日本では生活保護を受ける人の数は216万人
00:00:41戦後最多を記録しています
00:00:4450年以上日雇い労働を続けている藤森博さん
00:00:56日本の高度経済成長を支えた労働者の一人です
00:01:07これまで瀬戸大橋の建設 クロヨンダムのメンテナンス
00:01:12原発の作業員もやりました
00:01:15藤森さんは3畳半に一人暮らし
00:01:2466歳の今も働き続けています
00:01:28プレイ免許を言うやつですね 移動式プレイ免許
00:01:32劣化
00:01:3251年ですからね これは51年
00:01:36まあそれは若い時ですから
00:01:39これがパワーショベルのね もう古いんですよ
00:01:43俺らも6050何年とったやつですからね
00:01:46もうボロボロですけどね
00:01:48少しでも高い日当を得ようと
00:01:52多くの資格を取ってきましたが
00:01:54安定した老後は得られませんでした
00:01:57もう他に行くとこはなかったからね
00:02:01結局もうここで落ち着いてしまったってことですからな
00:02:0450年ほど
00:02:05抜け出せないっていうことがありますね
00:02:12もうここはもう中世の人生の終わりですわ
00:02:19戦後豊かさを求めてきた日本で取り残された人々
00:02:30私たちは貧困とどう向き合ってきたのでしょうか
00:02:37車椅子
00:02:54ご視聴ありがとうございました
00:03:24戦後日本国憲法により健康で文化的な最低限度の生活が保障されました
00:03:50その理念を実現するため生活保護法が作られます
00:03:56来れば差別平等に対応してその基準以下の人は記載してやります
00:04:04これは大きな進歩だと思いますよね
00:04:07しかし生活保護基準は低すぎると
00:04:12一人の血核患者が国を相手に裁判を起こします
00:04:15その支援運動は全国に広がりました
00:04:19高度経済成長で多くが豊かになる中
00:04:34日雇い労働者など貧困にあえぐ人が現れました
00:04:39ビンゴっていうのはそういう風に
00:04:43結局そこで生きていくためにだけ働く
00:04:47動物の生き方と一緒なんですよ
00:04:521970年代
00:04:56一人の経済学者が新たな貧困層を見出し
00:05:01ワーキングプアと名付けます
00:05:03まともな生活ができない人がいるんだということ
00:05:12働いていても食えない人がいるんだと
00:05:16今非正規労働者は全労働者の37%
00:05:22私は人間の定義が変わったって言っているんですが
00:05:26社会の底が抜けてきてるっていうことではないかと
00:05:29戦後70年
00:05:32豊かさを求めた果てに
00:05:35明らかになった格差と貧困
00:05:37当事者の証言で迫ります
00:05:471945年 昭和20年 敗戦
00:05:51町には家を焼かれ
00:05:56仕事を失った人があふれていました
00:05:59東京上野駅地下道に集まってきた
00:06:04家のない人々の問題は
00:06:06ついに元旦から9日朝までに
00:06:0915名の死亡者を脱に至りました
00:06:11この右側の人はもう動けぬ病人で
00:06:14左は死体です
00:06:16さらにもう一人の気の毒な死亡者
00:06:21日本は餓死者が出るほどの貧困に直面していました
00:06:27問題も出ないのであります
00:06:31この球場を捨てるでしょうか
00:06:33警察に行っても問題につないのであります
00:06:36コンクリートの上に直に虫ろや畳を敷いて
00:06:41そしてご飯の代わりに雑草を食べています
00:06:44こうした球場を目の当たりにし
00:06:48新しい憲法の中にある条文を入れようと
00:06:52強く主張した人物がいました
00:06:55社会政策学者の森戸達夫です
00:07:02森戸は戦後社会党から立候補し
00:07:06衆議院議員となっていました
00:07:08新しい憲法を議論するため
00:07:16衆議院に設置された委員会の中で
00:07:19森戸が発言した記録が残っています
00:07:22日本の国民は国民として
00:07:28生活に対する最小限度の権利を有することが
00:07:34はっきり出るということが
00:07:36今日憲法を作る場合には
00:07:38特に必要ではないかと私は思います
00:07:42最低限度の生活を保障する生存権です
00:07:505月3日の十条前広場
00:07:55新しい憲法がいよいよこの日から実施される記念の式典が
00:07:591947年昭和22年5月3日
00:08:05日本国憲法が施行されます
00:08:12森戸の提唱した生存権が憲法に記されました
00:08:17憲法第25条
00:08:21すべて国民は健康で文化的な
00:08:27最低限度の生活を営む権利を有する
00:08:31一方連合国軍総司令部GHQも
00:08:41日本政府に対し生活困窮者を
00:08:44国の責任で救済するよう指令を出していました
00:08:47指令を踏まえて制定された生活保護法です
00:08:55この法律には戦前の救護法の精神を引き継いだ
00:09:00欠陥条項がありました
00:09:02勤労の意思のない者
00:09:06そこを不良な者を保護しないと記されていました
00:09:10当時厚生省で生活困窮者の保護に当たっていた
00:09:21井出誠一郎さん
00:09:2290歳です
00:09:24誰をどのように保護するのかは
00:09:28役所や民生委員などの経験と勘で決められていたといいます
00:09:33怠け者であるとか働かない者とかいうような人には保護は適用しないとはっきり書いてあるんです
00:09:43それは欠陥条項と言ってましたけどね
00:09:47ある意味では国の裏先で救済するんだよという観念がありましたよね
00:09:54この状況を変えようとした人がいます
00:09:58井出さんの上司で保護家の課長だった小山慎二郎です
00:10:05小山はまず支給する金額を
00:10:20食費など必要品目を積み上げて計算する客観的なものに改めます
00:10:27さらに生活保護法を憲法25条にふさわしいものに改正することを提起しました
00:10:35生活に困窮する者は当然国に対して保護してくれと請求する権利を有する者だとする建前を取ったのである
00:10:48核することにより生活保護制度は単なる給品制度から社会保障制度へと発展することになるわけである
00:11:01小山とGHQとの接触を経て
00:11:08結核条項は削除され
00:11:101950年新しい生活保護法が制定されました
00:11:15この法律は日本国憲法第25条に規定する理念に基づき
00:11:25国が生活に困窮するすべての国民に対し
00:11:30その最低限度の生活を保障するとともに
00:11:36その自立を助長することを目的とする
00:11:39生活保護法がスタートした翌年
00:11:46受給者は205万人に上りました
00:11:50やっぱりびっくり予定したということでしょうね
00:11:55差別平等だよ君って
00:11:58要するに生活の困窮したものについては
00:12:01すべて平等に
00:12:04無差別平等に救済しなければいけないというような条項があって
00:12:10それがまさに日本でとっては新しい考え方
00:12:14それを踏まえて
00:12:16新しい生活保護法が組み立てられたということになるわけですね
00:12:22国が定めた基準については
00:12:25国が保障をしますと
00:12:27ぜひそこまでがいらっしゃいと
00:12:30来れば無差別平等に対応して
00:12:35その基準以下の人は救済してあげますよということが
00:12:39決められたわけですから
00:12:42これは大きな進歩だと思いますよね
00:12:45当時についてはね
00:12:46大阪方面では
00:12:50迫撃砲弾発煙弾などの大量生産が行われ
00:12:54異様な活況を呈しています
00:12:561950年
00:12:59朝鮮戦争による特需をきっかけに
00:13:02日本の経済復興が本格化していきます
00:13:05こちらは特需芸器のある会社
00:13:09ボーナス美の表情です
00:13:111956年
00:13:13一人当たりの実質国民所得が
00:13:16戦前のピークを上回ります
00:13:181956年度版の経済白書には
00:13:26もはや戦後ではないと記されました
00:13:29経済復興が進んだ1950年代
00:13:36生活保護の受給者数は減少します
00:13:391951年の205万人が
00:13:451960年には163万人と
00:13:4940万人以上減少しました
00:13:52しかし経済白書の5ヶ月後に出された
00:14:00厚生白書には
00:14:02貧困の問題が提起されました
00:14:04果たして戦後は終わったか
00:14:09貧困とその周辺の問題
00:14:14つまり生活困窮者と低所得階層の問題は
00:14:19我々の取り組まなければならない
00:14:22最大の社会問題である
00:14:24厚生省は独自に貧困世帯の調査を行っていました
00:14:32生活保護を受給している世帯よりも
00:14:36低い水準で暮らしている
00:14:38低消費水準世帯の推計です
00:14:42それによると
00:14:451955年には999万人
00:14:491960年には667万人が
00:14:54貧困状態にありました
00:14:56低消費水準世帯の人数は
00:15:02同じ年の生活保護受給者数の
00:15:054倍から5倍に上っています
00:15:07厚生白書には
00:15:16復興の背後に取り残された人々と
00:15:20記されています
00:15:22一方生活保護を受給していた人たちも
00:15:31貧困に苦しんでいました
00:15:351957年
00:15:37重い結核を患って入院していた
00:15:40朝日茂さんが
00:15:41国を相手取って裁判を起こします
00:15:44後に朝日訴訟と呼ばれ
00:15:49生存権への関心を高めた裁判です
00:15:51朝日さんが国を相手取って
00:15:54訴えを起こした理由はこうです
00:15:56私は生活保護患者ですから
00:15:591ヶ月600円の日用品費をもらっていますが
00:16:03これは文字通り
00:16:04チリ紙などの身の回り品を買うだけで
00:16:07おかずや栄養品を買うだけの費用は
00:16:09どうしても出てきません
00:16:11朝日さんは国立岡山療養所に
00:16:17生活保護を受けながら入院していました
00:16:19生活保護基準があまりに低額で
00:16:23健康で文化的な生活水準を維持できないと
00:16:28国を訴えたのです
00:16:29毎日決断上がりと
00:16:33ここは2年ぐらい
00:16:35毎日連続でね
00:16:37だからどうしても言われるんですよ
00:16:39だからそんな状態ですからな
00:16:42到底生活保護法の費用なんかでやっていける
00:16:45どういらないんですよな
00:16:47人間が今にも生きるか死ぬかという
00:16:50世得がいくのにね
00:16:52あまりにも百姿定義なね
00:16:54運用の仕方じゃないかと思いますな
00:16:56あまりにも低いしね
00:16:58生活保護法ができた翌年の
00:17:011951年から6年間で
00:17:041人当たりの国民所得は
00:17:07およそ2倍に増えました
00:17:09しかし生活保護の基準額の増加は
00:17:141.5倍にとどまっていました
00:17:16裁判を引き受けたのは
00:17:22当時25歳の若き弁護士
00:17:24新井明さん
00:17:26この裁判は
00:17:30憲法第25条
00:17:32生存権を争うものだと考えます
00:17:35新井さんは
00:17:38人間裁判と名付けました
00:17:41人間らしい生活を
00:17:46全ての国民に例外なしに
00:17:49戦後の日本が保障していくというのは
00:17:52憲法25条ですから
00:17:53人間らしい生活っていうのは
00:17:56どういう内容の生活なのか
00:17:59何が満たされれば
00:18:01人間らしい
00:18:02人間の尊厳が
00:18:03全うされた生活と言えるのか
00:18:06あらゆる人に
00:18:08人間らしい生活ってのは
00:18:10一体何かってことを
00:18:11問いかける裁判
00:18:12っていうのを
00:18:14言葉として
00:18:16煮詰めって
00:18:17言ったのが
00:18:181960年
00:18:25東京地方裁判所は
00:18:27朝日さんの訴えを認め
00:18:29生活保護の基準は低すぎ
00:18:33違法である
00:18:34と判決を下します
00:18:36最低限度の水準は
00:18:43決して予算の有無によって
00:18:45決定されるものではなく
00:18:47むしろこれを
00:18:49指導支配すべきものである
00:18:52憲法25条でいう
00:18:59健康で文化的な生活の保障というのは
00:19:02単なる絵に描いた
00:19:04持ちではないと
00:19:06中身のあることだと
00:19:08国が責任を持って
00:19:09全ての国民
00:19:11貧しい国民には
00:19:12健康で文化的な
00:19:14最低限度の生活は
00:19:18保障するという責任がある
00:19:19生活保護水準を決定する
00:19:23唯一最大の基準は
00:19:27憲法25条であって
00:19:29決してその時々の政府の
00:19:33用意している
00:19:34予算あるいは財政規模では
00:19:36ございませんってことを書いてるんです
00:19:38この判決は
00:19:41多くの人に勇気を与えました
00:19:44当時結核を患っていた
00:19:49朝日健二さんも
00:19:51その一人です
00:19:52家や畑を売っても薬代が足りず
00:20:01生活保護を受けながら暮らしていました
00:20:04健二さんは後に
00:20:09朝日茂さんの養子となり
00:20:11裁判を引き継いだ人物です
00:20:13まあそれはもう私自身が飲まず食わずのような生活したしね
00:20:23療養所でも人並みの生活ができないで出た
00:20:28それに対してピシッとした判決だでしょ
00:20:30それはやっぱりつらかったけども
00:20:36それが本来の形じゃないんだということが
00:20:39判決で出たからね
00:20:41それはもう飛び上がるほど嬉しかったですよ
00:20:45これに対し国は東京高等裁判所に控訴します
00:20:52生活保護基準は
00:20:55一般の生活水準に比べて低くはないという主張でした
00:21:01国を相手に戦い続ける朝日さんを応援しようと
00:21:12全国的な運動が広がります
00:21:14生活保護受給者だけでなく
00:21:18労働者が朝日訴訟の運動に参加し始めました
00:21:23私はこれです
00:21:26当時日本最大の労働組合組織総評で
00:21:34社会保障の担当だった久門照夫さんです
00:21:39総評は全国の労働組合を動員し
00:21:42朝日さんを応援します
00:21:44労働者は全国一律の最低賃金の制定を求めていました
00:21:51最低限度の生活を可能とする賃金を求める運動は
00:21:58朝日さんの生存権の戦いと同じだと考えたのです
00:22:03今とは違って
00:22:05やっぱり全体としてね
00:22:08労働者の賃金が低いし
00:22:11そして生活は苦しかった
00:22:12その苦しい人たちが
00:22:16大きな企業も含めてね
00:22:20圧倒的多数だったということが
00:22:22まず一つ言えますよね
00:22:23したがって生活を基準で食っていけないと
00:22:28それは憲法違反ではないかというね
00:22:31そういう朝日茂さんの訴えに
00:22:34共感する労働者というのが非常にたくさんいたということですね
00:22:39全国一律の最低賃金制と生活を保護というのはね
00:22:44車の両輪だと
00:22:46したがってこの車の両輪というのは
00:22:49この二つがね
00:22:50こうして
00:22:53両方とも最新を作らせ
00:22:58そして生活を基準を引き上げるということでね
00:23:00初めて車を走るんだと
00:23:03一緒にね
00:23:04生活区間の改善していこうじゃないかっていうね
00:23:07そういう気持ちが
00:23:11相当多くの労働者の中にあったということですね
00:23:151963年東京高等裁判所は
00:23:21生活保護の基準について
00:23:23すこぶる定額ではあるが
00:23:25違法と断定することは
00:23:28総計であるとし
00:23:30一審判決を破棄します
00:23:32朝日さんはすぐに最高裁に上告しました
00:23:38私たちが人間らしい
00:23:43漁業生活がしたいと
00:23:45犬のように死にたくないと
00:23:47いう願いは
00:23:49やはり
00:23:50労働者の人が
00:23:52人間らしい生活がしたいという
00:23:55賃金の引き上げを要求すること
00:23:57一般の社会の人々が
00:23:59十分な生活ができる
00:24:03国民年金を要求する
00:24:05願いと一緒だろうと思う
00:24:07しかし
00:24:11朝日さんの容態は
00:24:12急速に悪化していきました
00:24:14訴訟を継続するため
00:24:20支援者の中から養子になる人を募った時
00:24:23手を挙げたのが
00:24:25賢治さんでした
00:24:26賢治さんは
00:24:29病床の朝日さんから
00:24:31愛用の万年筆をもらいます
00:24:34私にこれを手に持たせてね
00:24:39でそれを掲げて
00:24:42ペンに書いて
00:24:43鉄のわらじをはいて
00:24:45全国をくまなく歩いて
00:24:49朝訴訟を訴えていきます
00:24:51こう言ったの
00:24:53それだけしか言わなかった
00:24:55無口だから
00:24:57人前で喋ることなかったの
00:25:00それぐらいしか喋れる
00:25:01朝日茂さんは
00:25:051964年
00:25:07判決を見ぬまま
00:25:0951歳で亡くなりました
00:25:111967年
00:25:21提訴から10年後
00:25:23最高裁判所の判決が下ります
00:25:26朝日さんの死亡によって
00:25:30訴訟は終了
00:25:31終了しているとし
00:25:32原告敗訴が確定しました
00:25:35最高裁判所は
00:25:42判決文にこう記しました
00:25:44憲法25条は
00:25:47国の責務として宣言したにとどまり
00:25:51直接個々の国民に対して
00:25:53具体的権利を付与したものではない
00:25:56何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は一応厚生大臣のご目的的な裁量に任されており直ちに違法の問題を生ずることはない
00:26:13うーんと煮詰めて言うと
00:26:18行政府の一部門である厚生大臣
00:26:22その時々の厚生大臣の判断裁量
00:26:27彼らの胸三寸に1億国民の生存権が預けられると
00:26:36意地悪く言えば
00:26:38交際以降のおかげで
00:26:40憲法25条は絵に描いた餅に
00:26:43貶められたって言ってもいいんですけどね
00:26:46実際つまり保証されるべきものが保証されない
00:26:51あれは本当の餅じゃないと
00:26:54絵に空腹を満たすために
00:26:58意地ましく絵に描いた餅だっていう
00:27:00そういう意味では負の部分っていうか影の部分っていうか
00:27:05麻生所長の10年の戦いは影の部分を残している
00:27:09生活保護の基準額は
00:27:141960年代経済成長が進み
00:27:17国家予算が増える中で
00:27:19大幅に増額されます
00:27:211961年には前年比18%の増加
00:27:28その後10年間で
00:27:313.7倍に増えました
00:27:331954年に厚生省に入った
00:27:39刈安達夫さん
00:27:4187歳
00:27:42当時
00:27:47保護課で生活保護の基準額を決める担当でした
00:27:51我々も福祉国家を作るために一生懸命に思い出るんだから
00:27:56当然我々も大蔵省と接種しながら
00:28:00保護基準を上げておくよという
00:28:02そういうね
00:28:03かえって福祉国家論に
00:28:06我々が考えていた福祉国家論に
00:28:10火をつけてくれたようなもんだよ
00:28:12麻生総省の裁判所の考え方が
00:28:16しかも国会でも議論してくれるから
00:28:20それはいいや
00:28:21持ってもこいだって
00:28:22そうすると我々もやる気になっているし
00:28:25それから野党もガンガンガンガンいってくるから
00:28:27そうするとやっぱり財政当局だって
00:28:30日本の経済がこんなに良くなってきているんだから
00:28:33それを上げざるを得ないじゃない
00:28:35そうするとあの頃の基準が
00:28:36バーッと上がっていくわけだ
00:28:38だからそれはやっぱり我々の持っていた
00:28:42いち早くいち早く
00:28:46ヨーロッパ並みの福祉国家のレベルまで上げたいと
00:28:50ね
00:28:501960年代日本は高度経済成長の時代を迎えます
00:29:05池田内閣は所得倍増計画を打ち出し
00:29:12経済成長を政治の中心に掲げました
00:29:1510年で国民総生産GNPを
00:29:2413兆円から26兆円に倍増させるという目標は
00:29:296年で達成します
00:29:311人当たりの国民所得は
00:29:371960年が14万円
00:29:40その後増え続け
00:29:4373年には83万円と
00:29:47およそ6倍になりました
00:29:49企業の社員となり
00:29:54安定した給与を得て生活をする
00:29:57サラリーマン家庭が増えていきます
00:29:59こうした経済成長が始まる頃
00:30:07産業構造の転換が国策として行われました
00:30:111950年代半ば
00:30:19国は石炭から石油に転換する政策を始めます
00:30:241955年からの15年間で
00:30:28全国で700を超える炭鉱が閉山し
00:30:3223万人の炭鉱労働者が失業しました
00:30:35石炭はエネルギー源のチャンピオンの座を
00:30:42完全に譲り渡しまして
00:30:44エネルギー革命は今音を立てて進められています
00:30:48国はこうしたエネルギー革命で生まれた失業者を
00:30:56新しい産業に送り込む政策を打ち出していきます
00:30:59産業構造の変革に応じて
00:31:05労働力を配置し直す雇用の流動化です
00:31:09雇用の流動化を促進し
00:31:14もって所得格差解消への条件の整備を急がなければなりません
00:31:20雇用の流動化の促進等は
00:31:24勤労人口特に青少年に明るい希望と誇りと
00:31:29もたらすことになると信じておるのです
00:31:32労働力の流動化を促す政策は
00:31:381950年代の半ばから始まっていました
00:31:41農村から都市へ
00:31:45中学を卒業した若者たちが集団就職し
00:31:49金の卵ともてはやされました
00:31:52労働力の流動化は
00:31:57格差を是正するための政策でした
00:32:00国民誰もが豊かさを求めた時代だったのです
00:32:05しかし産業構造の転換の中で
00:32:18炭鉱地帯では生活保護の受給者が急増しました
00:32:22戦後日本の石炭生産量の6割を産出した
00:32:29福岡県筑豊地方です
00:32:32炭鉱はですね
00:32:36これ真っ直ぐ行ったところにあったんですよ
00:32:40あの山があるでしょ
00:32:41あの辺からね
00:32:43あの辺もずっと炭鉱が
00:32:45当時生活保護を受給していた
00:32:50飯塚夏子さんです
00:32:52幼い子供3人を抱えた飯塚さんは
00:32:59炭鉱の閉山で
00:33:01その日食べるものすら買えなくなりました
00:33:04夫の両親夫そして自身も同じ炭鉱で働いており
00:33:13一度に職を失ったのです
00:33:16もうそれは本当もうみんな貸しする人と一緒ですよね
00:33:24なかったらね
00:33:26食べるもんがない
00:33:27食べれんから
00:33:28病院行くにも行けんから
00:33:31みんなどうしたらいいやろうかというと
00:33:35そういう悩みが多かったですよね
00:33:37その時はもう保護もらうにしても
00:33:42民生員さんが自分たちの権利を守らんことにいかない
00:33:46権利を出してね
00:33:50やっぱり自分たちで守っていかんと
00:33:53生きていけんなってことは思ったね
00:33:56畜報では収入が途絶え
00:34:01生活できなくなった人々が
00:34:04福祉事務所にあふれました
00:34:06畜報の中でも多くの炭鉱があった田川郡で
00:34:15生活保護を受給している人の割合です
00:34:181955年以降急増し
00:34:2361年に10%
00:34:2664年には20%を超え
00:34:29全国一となります
00:34:31国はこうした失業者に新たな就職先を見つけようと
00:34:42広域職業紹介の制度を作ります
00:34:45職業安定所が県外への就職を圧戦していきます
00:34:53田川職案では
00:34:57炭鉱離職者の県外への就職数が
00:35:001960年からの7年間で
00:35:044580人
00:35:06京浜工業地帯や阪神工業地帯
00:35:11自動車産業が没航していた愛知県などへの就職でした
00:35:16田川郡添田町に
00:35:22職案の初回で畜報を離れた
00:35:25かつての労働者が暮らしています
00:35:28こんにちは
00:35:33こんにちは
00:35:34県外集団就職の第一陣でした
00:35:42どうせ行くなら東京に行きたい
00:35:48っていうのが出てきました
00:35:50その時には
00:35:51まだ若い20代ですから
00:35:53不安とかそういうのを考える
00:35:55余裕なかったんですね
00:35:57もうとにかく
00:36:00これで仕事が見つかったの
00:36:03なんとかなるかなと思ってね
00:36:05食べられるって言うんですよ
00:36:08自分が食べていけるって
00:36:10働けば
00:36:11どこ行っても働けば
00:36:13食べていけるって
00:36:14観念を持ってましたね
00:36:15やっぱきついの労働者だから
00:36:18NHKの番組
00:36:24日本の素顔では
00:36:261960年
00:36:28炭鉱離職者の東京での暮らしを取材しています
00:36:32新しい生活を求めて
00:36:38まだ見ぬ土地へ
00:36:39その仕事の多くが
00:36:41土工や鉄工所です
00:36:43東京のある芋の工場
00:36:5014人の離職者たちが
00:36:53ここに住み込んでいます
00:36:54この人たちはいわば
00:36:57排水の陣といった気持ちです
00:36:59慣れない仕事
00:37:01職場では炭鉱から来たというので
00:37:04何かにつけて
00:37:05みんなの目が向けられます
00:37:06それだけ気張らなければと
00:37:08玉の汗を流す人たち
00:37:10それに仕送りや
00:37:12これからの生活設計など
00:37:14何かにつけて
00:37:15緊張の連続です
00:37:17皆川さんの東京の新しい職場は
00:37:26畜報で夢みたものとは全く違いました
00:37:30給料は一人で食べていくのにやっとで
00:37:35ふるさとの両親に
00:37:38仕送りはできませんでした
00:37:39これ東京です
00:37:43これは東京でね
00:37:46これたちが竹中コンテ
00:37:48これが竹中コンテ
00:37:50ソニービルなんですよね
00:37:51ソニービルを9つ建てるうちの竹中コンテが
00:37:55受け取ったから
00:37:56その仕事をやってましたよね
00:38:01下請けの
00:38:03行ったら人数の多いのにびっくりしちゃったんですよ
00:38:08毎日100人ぐらいそこに集まってきてやってたんですよ
00:38:11そして寝るのがずっと並んで寝るから何十人か分からなかったけどね
00:38:18うん柱が立ってるだけで
00:38:22なんかふすまもなんもないですね
00:38:24ずーっとこう並んで寝てたんで
00:38:28あれにはびっくりしちゃったんですよ
00:38:30じゃこ
00:38:31じゃじゃこねっていうのはやっぱりこう
00:38:34一応じゃこねですよねあれ
00:38:36こう並んで眠って
00:38:40そうね
00:38:423人ぐらいこう
00:38:46こんなふうになるほどするでしょ
00:38:49そしたら縦にこう
00:38:523人ぐらい並んで寝てましたっけね
00:38:55でも匂いがものすごかったです
00:39:02匂いが
00:39:04美永さんは小学校を卒業後
00:39:10単校で14年間働きました
00:39:13しかしそこで培った技術は東京では役に立たず
00:39:19一から仕事を覚えました
00:39:21手こずのもう宇宙ぐらい重たいのを
00:39:29固いで担いでこうしていくんですよ
00:39:32そしてその渡っていくのが
00:39:34こんな板切れ一枚ですよ
00:39:37この分厚い板がこう差し掛けてあるだけ
00:39:41そんなことを急にやらされるんですか
00:39:44そしてただ心配しんでも止めてやるから
00:39:49どこかでくくって止めてやるのかもしれない
00:39:53とにかく他の人がやってるから先輩たちが
00:39:57だからそんなに心配が
00:40:00これこういうのが土方なんだなと思って
00:40:02それこそ関連してやるっていうのがあるんですね
00:40:05本当に貧乏というのは
00:40:10自分も体験してね
00:40:13貧乏ってこれが貧乏なんか
00:40:17本当の意味で貧乏っていうのは
00:40:19そういうふうに
00:40:21結局そこで生きていくためにだけ働く
00:40:26動物の生き方と一緒なんですよ
00:40:30この時代の貧困を調査し続けた人物がいます
00:40:37経済学者の江口栄一です
00:40:41江口は貧困研究の金字塔ともいわれる
00:40:47現代の低所得層を表しました
00:40:50当時江口とともに調査をした研究者が
00:40:5950年前の研究資料を大切に保管していました
00:41:03経済学者の川上雅子さんです
00:41:11江口が注目したのは
00:41:17都市に大量に流れ込んできた労働者の多くが
00:41:21最終的に日雇い労働者になっていることでした
00:41:25江口と川上さんは
00:41:28日雇い労働者の街東京三谷を
00:41:321967年から7年以上にわたり調査します
00:41:37全部で1000係数近く
00:41:44この三谷平という労働者調査
00:41:48面接記録表です
00:41:511153人分の面接記録です
00:41:56江口は酒を片手に
00:42:00時には労働者とともに焚火に当たり
00:42:04顔を黒くすすで汚しながら
00:42:07一人一人聞き取り調査をしました
00:42:09調査表には出身地、年齢、家族の有無
00:42:18病歴や職歴が書かれています
00:42:23以前は炭鉱で働いていたという人も多くいました
00:42:33ここに2ケースございますけれども
00:42:412人とも中学卒業して
00:42:44スムーズに就職できております
00:42:47ほとんどの人が日雇い労働者になっている人は
00:42:52最初の仕事は中卒で就職しています
00:42:56そこで何年間か勤めていて
00:42:58一見条件が良いように思われる
00:43:03日雇い就労の方へ転職しているんですね
00:43:08日雇い労働者は一度定職に就いた後
00:43:13三谷に来ていました
00:43:15就職先での事故や病気
00:43:23そして賃金への不満などが
00:43:26転職の主な理由でした
00:43:28日雇いを中心とした労働者の出身地を
00:43:361955年から17年にわたり調べたデータです
00:43:41東京の日雇い労働者の出身地の多くが
00:43:47北海道や東北、新潟です
00:43:50西日本、特に九州や三陰、四国出身の
00:43:57日雇い労働者が集まってくるのが大阪でした
00:44:00大阪西成区
00:44:12線路に囲まれた800メートル四方の地区は
00:44:17鎌ヶ崎と呼ばれています
00:44:19東京三谷と並ぶ日雇い労働者の街です
00:44:24ここでは今も日雇いの仕事の手配が毎朝行われ
00:44:33労働者は土屋と呼ばれる簡易宿泊施設に泊まるという
00:44:38その日暮らしの生活を送っています
00:44:471960年代からここで日雇いをして
00:44:5050年になるという人たちも多くいます
00:44:54中島光雄さんは長崎の中学を卒業後
00:45:03大阪のガラス工場に就職した
00:45:06かつての金の卵です
00:45:09しかし工場は倒産
00:45:13その後勤めた鉄工所で怪我をし
00:45:17日雇い労働者になりました
00:45:19これ何の怪我やったんですか
00:45:21これはね
00:45:23鉄工所に勤めてる頃
00:45:26鉄工所に勤めてる頃に
00:45:31コンビヤが回っとったんや
00:45:34手袋をはめとったから
00:45:37それがパーンと食い込んだよ
00:45:39コンビヤの右の手が
00:45:41これやったら
00:45:43もう家で働くしえろ
00:45:44あんた怪我してる
00:45:46そうやうちで働く気がせんやろ
00:45:50うん
00:45:51退職を進められたってこと
00:45:54そうそう
00:45:55俺も自分から降りたいよ俺も
00:45:59もう辞めるとこんなもん
00:46:01しかし中島さんがたどり着いた日雇いの労働環境は
00:46:10さらに過酷なものでした
00:46:12NHKがその実態を1960年に取材した臨時労働者です
00:46:19建設工事中頭を強打して運ばれてきた下請けの労働者
00:46:27この人はこの撮影の2日後に息を引き取りました
00:46:31身分保障もなく健康管理もない職場でこの人は死んでいきました
00:46:38東北地方から出てきた人だということです
00:46:42労働災害の発生率は行員に比べて臨時は2倍に上りますが
00:46:47仕事になれないことと危険な仕事が多いからだということです
00:46:52日雇い労働者の相談を受けてきた人がいます
00:46:58大阪・鎌ヶ崎の労働福祉センターで働いていた
00:47:03日雇い労働者を対象にした失業保険はありますが
00:47:11支給基準は厳しく
00:47:13労災や健康保険の加入も
00:47:17雇い主が怠る例が多くありました
00:47:19事故の相談は1965年3000件を超えました
00:47:26普通自分の病気で休んだって
00:47:33基本給が削られるということはないじゃないですか
00:47:36当時はね
00:47:38それが当たり前だったですよ
00:47:40日本の常識だったですよ
00:47:43そういうことに比べれば
00:47:45ここで働いている方は
00:47:48全くそういうことはないわけでしょ
00:47:51だからもう怪我したらもう即
00:47:54もう本当にすぐ隣が地獄ということになるわけですよ
00:48:00生活の面から見たら
00:48:01一日稼いでそれで生活を支えているわけですから
00:48:06日雇いは健康であっても
00:48:11毎日仕事があるとは限りません
00:48:13景気の動向に左右されます
00:48:16そんな日雇いの仕事を紹介する
00:48:22手配師を1960年代からしてきた男性です
00:48:27ここは安全便利を言うのは
00:48:30忙しい時は使えます
00:48:32暇だったら切れる
00:48:34それが自由が利くからね
00:48:37だから忙しい棚をここに連れてきたら
00:48:40風だけ揃うだろうよね
00:48:42自分のところの従業員やったら
00:48:45切ることできるしません
00:48:46置いとかなきゃいけない
00:48:48毎日使わなきゃいけない
00:48:49その分ここは使うんでいいから
00:48:52暇やりとぷつっと汗かき込んでいるし
00:48:56そういうものの違いがあるわね
00:48:59それはもう僕がなかったら困るわな
00:49:02みんなどっこも
00:49:03日雇い労働者たちは
00:49:07下請け構造の末端にいました
00:49:09総評の職員だった
00:49:16久門照夫さんです
00:49:23総評では当時
00:49:24下請け構造を問題視していました
00:49:27工場や建設現場では
00:49:32企業の下で下請けの仕事をする会社があります
00:49:36二次下請けや三次下請けには
00:49:42日雇い労働者が数多くいました
00:49:45まさにこれ集団構造ですよね
00:49:49結局大企業の一握りの大きな部分が
00:49:54その莫大な利益を上げる
00:49:56上げるためにはどうやってコストを削減するかということで
00:50:00第一次第二次第三次下請け
00:50:03孫請けをね
00:50:04叩いて叩いて叩きまくるということで
00:50:07成り立っているわけですよね
00:50:09NHKの番組では
00:50:13日雇いを含む臨時労働者を
00:50:16企業側がどう考えているのか
00:50:19日経連にインタビューしています
00:50:23日経連の前田専務はどうでしょうか
00:50:25いいことでは必ずしもないと思いますけれども
00:50:29企業経営の立場
00:50:32それから大きく申しますと
00:50:34日本経済が非常に底が浅いと
00:50:38経済の宿命的な
00:50:40今日の立場から見ますと
00:50:42これは削くべからざる
00:50:44必要悪ということになるだろうと思うんです
00:50:47やはりこの経済の景気不景気に
00:50:52即応するために
00:50:55雇用の中に弾力性を持たせるという意味から
00:51:00絶対にこれ必要として採用されている制度なんです
00:51:04経済学者江口栄一は
00:51:09日雇いのような不安定な状況にある労働者が
00:51:14都市にプールされていると記しています
00:51:17この底辺労働者の初階層は
00:51:22高度経済成長が展開した
00:51:25労働力流動化政策の下で
00:51:29積極的に作り出されたものであった
00:51:32このプールの底には
00:51:35大きな穴が開いていて
00:51:37そこから水が絶えず
00:51:40かなりの速度で漏れていくという構造を持っている
00:51:44その出口からの
00:51:47この世界からの流出は
00:51:50死亡という結末となって現れる
00:51:53しかしそこには
00:51:56外側からの新しい流入
00:52:00継ぎ込まれが不断に行われ
00:52:02その推移はいつも高く保たれていくのである
00:52:07貧困は作られるというふうに
00:52:13思っていたわけです
00:52:15落ちるのではなくて
00:52:19貧困の形成という表現を使った
00:52:23貧困は作られていく
00:52:25この社会の中で貧困は作られていく
00:52:29今の日本で具体的に
00:52:34どのように作られたのだろうか
00:52:36という課題なんですよね
00:52:41厚生省が独自に調査してきた
00:52:48低消費水準世帯の人数です
00:52:511961年まで減少し
00:52:56その後500万人前後を推移
00:52:5865年には478万人になりました
00:53:041965年を最後に
00:53:10厚生省はこの貧困調査を打ち切りました
00:53:14厚生省はなぜ調査を打ち切ったのでしょうか
00:53:21我々が昔考えたような
00:53:25古い時代の
00:53:26昭和20年代の失業者という考え方が
00:53:29もう失業者なんかいないんですよ
00:53:32いくらでも仕事があるわけだ
00:53:33働こうと思えば
00:53:34どこでも仕事があるし
00:53:36給料は高いし
00:53:38いくらでも生活できるわけだ
00:53:41貧乏人ってどこをどう探せばいいんだ
00:53:43というような時代が
00:53:45一瞬出てきたんだよ
00:53:46だから調査をする必要ない
00:53:491970年代
00:54:00一億総中流という言葉がブームになります
00:54:04国の世論調査で
00:54:06自分が中流の生活だと答えた人が
00:54:10およそ9割に上りました
00:54:12この時代
00:54:17大企業では
00:54:18就寝雇用制度が確立されていきます
00:54:21正社員は給与だけでなく
00:54:26社宅や住宅手当
00:54:28家族手当など
00:54:30福利厚生の恩恵を受けていました
00:54:32貧困はもはや過去の問題である
00:54:44という世相の中で
00:54:46経済学者江口栄一は
00:54:481971年の東京中野区を調査しました
00:54:52コンピューター
00:54:56コンピューター
00:54:58はいコンピューターです
00:54:59大型コンピューターです
00:55:03当時中野区は
00:55:07全国に先駆けて
00:55:08コンピューター化を進めており
00:55:1132万人の住民票と
00:55:13課税台帳で
00:55:14世帯収入の水準を計算することが可能でした
00:55:18これは全世帯なんですよ
00:55:22中野区全世帯についてのデータを
00:55:26作ることができたということが
00:55:29ものすごく珍しいといいますか
00:55:35貴重なデータということになりますね
00:55:38中野区は山手線のすぐ外側にある区です
00:55:44住宅街の中に中小の工場が多くありました
00:55:49地方から都会に来て間もない人が
00:55:54好んで住んだ町です
00:55:56調査結果は驚くべきものでした
00:56:03生活保護基準の水準未満の所得しかなかった世帯が
00:56:08全世帯の26.2%
00:56:124分の1以上の世帯が貧困だというのです
00:56:18本当は26.2%の人が
00:56:26その所得だけから考えると
00:56:28保護を受けてしかるべき
00:56:30生活保護を受けてしかるべき
00:56:33人の割合だということなんですよね
00:56:36でも実際にはもうこれの
00:56:40多分一応あるいは
00:56:42もう満たないくらいじゃないでしょうかね
00:56:45実際に保護を受けていた人というのは
00:56:48まず保護基準以下の人が
00:56:5126%いるということで
00:56:54貧困者の数が非常に多いということを
00:56:58示したことになるんですよね
00:57:00それで本当にそんなに多くいるのかというふうに
00:57:06も言われましたけれども
00:57:08これは私としてはかなり厳密に
00:57:12風邪台帳と家族構成を合わせて
00:57:17計算したものでありますのでね
00:57:23私としては26%というのは
00:57:27確かな数字というふうに思っています
00:57:28巨大都市
00:57:31東京の中心部での保護基準
00:57:34またはそれ以下という
00:57:37低所得低消費世帯の量は
00:57:40高度経済成長期を経て
00:57:43むしろ膨大な量に達している
00:57:45我々が引き出した
00:57:49低所得低消費水準世帯は
00:57:53現代の生活に困窮する労働者
00:57:58ワーキングプアであるということができる
00:58:02近年多くの人に知られるようになった
00:58:09ワーキングプア
00:58:11江口の論文で日本で初めて使われました
00:58:17日本では働いていれば
00:58:22働くっていけるもんだという考え
00:58:26結構強いですよね
00:58:27だけれど
00:58:29彼氏もそうではなくて
00:58:32働いていても食えない人がいるんだと
00:58:35食えないという意味は
00:58:37まともな生活ができない人がいるんだということ
00:58:42それを集団として捉える
00:58:45言葉としてワーキングプア
00:58:48というふうな表現を使っているということですね
00:58:54江口は働いているのに
00:58:59貧困から抜け出せない人たちの存在を明らかにしました
00:59:03貧困の概念を変えた江口の研究
00:59:07しかし社会の注目を集めることはありませんでした
00:59:121973年石油危機
00:59:24消費は低迷し
00:59:27戦後初のマイナス成長となりました
00:59:30高度経済成長の終焉でした
00:59:361979年
00:59:43日本の福祉行政が大きな転機を迎えます
00:59:46公正で品格のある
00:59:52日本型福祉社会の建設に
00:59:54力を致す決意であります
00:59:56日本型福祉
00:59:59日本人の持つ自立自助と相互扶助の精神を歌う福祉官が提唱されました
01:00:081970年に厚生省に入り
01:00:142年間生活保護を担当
01:00:16後に弁護士となった美藤博さんです
01:00:20美藤さんは日本型福祉に疑問を感じたといいます
01:00:26日本型日本型といいますけど
01:00:31率直に言えば後進国型なんですよね
01:00:36福祉が進んでいない国の形
01:00:40だから一番特徴的に言えば不要の強制ですよね
01:00:45家族というものを大事にして
01:00:47それで国に頼るんじゃなくて
01:00:52家庭でお互いに面倒を見ましょうというのが
01:00:55福祉の原点だというわけでしょ
01:00:56自立というものを強調する
01:00:59だから今の考え方の根本が
01:01:02日本型福祉社会という中で出てきたわけで
01:01:06その時は多い多いと思いましたけどね
01:01:11とんでもない話だと
01:01:12社会保障の在り方と全然違うじゃないかと
01:01:161981年国の財政赤字への対策のため
01:01:23第二次臨時行政調査会が設置されます
01:01:26その答申は社会保障費の抑制を打ち出しました
01:01:371981年厚生省社会局保護課長の名で
01:01:42全国の福祉事務所にあて
01:01:44生活保護の適正実施の推進について
01:01:48と題する通知が出されます
01:01:51生活保護を受ける資格がない者が
01:01:55不正に受給しているとして
01:01:57申請者の予貯金や
01:01:59勤労収入、年金、仕送りなどを
01:02:04徹底して調査することが求められました
01:02:07当時、厚生省の保護課にいた
01:02:14片石修造さんは
01:02:15この通知は生活保護の信用を
01:02:19守るために出されたのだといいます
01:02:21当時、暴力団関係者が
01:02:26組織的に生活保護を受けている
01:02:29そういう事例が複数回
01:02:32新聞で報道されまして
01:02:34私たちも驚いたんですけれども
01:02:38これはまずいなと
01:02:39このままだと一般国民は
01:02:43生活保護というのは何なんだということで
01:02:45随分いい加減だなということで
01:02:47生活保護制度の信頼といいますかね
01:02:51そういうのがなくなっちゃうんじゃないか
01:02:52そういうのことで
01:02:54生活保護の資産収入をですね
01:03:00適正に把握して
01:03:02不正に保護を受けるということがないように
01:03:06もちろん暴力団ももちろんですけど
01:03:08それ以外においてもね
01:03:10適正に保護を実施して
01:03:12生活保護の制度の信用を
01:03:16落とすようなことにならないようにね
01:03:17頑張ってくださいと
01:03:19お願いしますという通知を出したと
01:03:21こういうことです
01:03:22当時、大阪市の福祉事務所で
01:03:29ケースワーカーをしていた
01:03:30松崎清さん
01:03:32この通知に従う中で
01:03:35窓口に立つケースワーカーと
01:03:38保護を申請に来た人の間に
01:03:41溝が生まれたといいます
01:03:42それはやはり
01:03:44そもそも信頼関係が成り立たない
01:03:47相手は不正をしているのではないか
01:03:49果たすべき疑問を果たしていないのではないか
01:03:51というような疑いの目で
01:03:53保護利用者の方と支援していくわけですから
01:03:56心の通い合いというのはないんですよね
01:03:59やっぱり保護を受けている方にとっては
01:04:01どんなことを言われるかわからない
01:04:03どんなことを調査されるかわからない
01:04:05それがケースワーカーだというふうに
01:04:07変わってしまって
01:04:08こちらとしても協力が得られないものですから
01:04:11やはり命令的に
01:04:12ああしなさいこうしなさい
01:04:14なぜできないんですかと
01:04:15できなければ生活保護を切りますよというような
01:04:18権力的な関係に変わっていくことになるんです
01:04:20厚生省は
01:04:23生活保護の適正実施のための実例集を
01:04:27全国の福祉事務所に配りました
01:04:30当時現場では却下すごろくというような形で
01:04:34呼ばれた箇所があるんです
01:04:36それがちょうどこのページになりますけどもね
01:04:38却下すごろくと
01:04:40基本的には帰っていただくというのがありますけども
01:04:44生活保護の却下ができると
01:04:45例えば病気で働けないと申請者が訴えても
01:04:51ケースワーカーが主治医の意見も考慮し
01:04:55働く能力があると判断した場合は
01:04:57口頭による就労の指導
01:05:00さらに文書での指示が行われます
01:05:04応じない場合は
01:05:07保護の停止または廃止と記されています
01:05:11生活保護を申請しても
01:05:14解消しないというマニュアルなんです
01:05:16生活保護というのは困っていることが確認されれば
01:05:20解消をして
01:05:21そしてその方が自立をしていくように
01:05:24支援をしているというのが生活保護ですからね
01:05:27生活保護のやり方とは違う
01:05:28全く違う一室のものが
01:05:30ここに書かれているというふうに僕は思います
01:05:32東京・荒川区では
01:05:361984年からの4年間で
01:05:40生活保護の受給者が半減しました
01:05:44当時荒川区で
01:05:48生活保護を支援する団体が
01:05:50集会を開いた時に
01:05:52ある女性が
01:05:53生活保護申請時の体験を語った
01:05:56録音テープが残されています
01:05:59これは原島さんの写真と
01:06:04当時話をしてもらったテープですね
01:06:09当時46歳で
01:06:12一人暮らしだった原島信子さんは
01:06:15病気で仕事ができなくなり
01:06:18福祉事務所に相談に行きました
01:06:20私は東日暮里に住む原島と申します
01:06:28私は10年前から
01:06:31入退院の繰り返しを繰り返し
01:06:34思うように働けなくなってしまいました
01:06:37福祉に行くのは
01:06:39死ぬほど辛かったのですが
01:06:41でも突っ張るにも
01:06:43お金がなくて
01:06:44どうすることもできず
01:06:46相談に来ました
01:06:47ところが
01:06:49保護を受けるなら
01:06:50アパートを買われと言われ
01:06:52散々歩き回され
01:06:54動けなくなった私を
01:06:56台車に乗せてまで
01:06:57アパートを探しをさせました
01:06:59支援団体の2人が
01:07:04原島さんに付き添い
01:07:063度
01:07:07福祉事務所の窓口に行き
01:07:09生活保護は
01:07:11開始されました
01:07:12申請に行った時に
01:07:16生い立ちから
01:07:17結婚歴から
01:07:19家族の関係だとか
01:07:22そういうのを
01:07:23全部聞かれるわけですよね
01:07:25恥をかかされたっていうか
01:07:28みじめな思いになっていく
01:07:31そんな自分が
01:07:35生活保護を受けなきゃならなくなるなんて
01:07:37思ってもいなかったんだけど
01:07:38いろいろ努力した結果
01:07:41生活保護しか
01:07:42今は乗り切れないっていう
01:07:43思いの人たちが
01:07:45行くわけだから
01:07:46そういうことを
01:07:492時間も3時間も聞かれたら
01:07:51それはもう
01:07:52恥をかく
01:07:54どころじゃなく
01:07:55みじめな
01:07:55人間として
01:07:57本当にみじめな思いになっていくんじゃないかな
01:08:00これは
01:08:04荒川区役所の
01:08:06組合法です
01:08:07福祉事務所の
01:08:09ケースワーカーの悩みが
01:08:11書かれています
01:08:12今の自分を定義づければ
01:08:18貧乏人いじめを仕事にしているんです
01:08:21無差別平等
01:08:25そこんところは忘れられてる
01:08:28生活保護受給者の数は
01:08:351960年代後半に150万人を切って以降
01:08:39ほぼ横ばいを続けましたが
01:08:421984年の
01:08:441984年の147万人をピークに
01:08:47急激に減少していきました
01:08:49戦後日本の貧困
01:08:561998年に書かれた論文です
01:09:00国のデータをもとに
01:09:02貧困世帯の数を割り出し
01:09:05そのうち何%が実際に生活保護を受けているのかという
01:09:09補足率を導き出しています
01:09:12それによると
01:09:20生活保護の補足率は
01:09:221981年に11.9%となった後
01:09:27低下傾向が続き
01:09:2990年には4.9%まで落ち込みました
01:09:3380年代後半の
01:09:38生活保護受給者数の減少は
01:09:40このような低い補足率の下で起きていたのです
01:09:44言語は平成であります
01:09:51日本は2度の石油危機を世界に先駆けて克服
01:10:01ジャパンアズナンバーワンと言われるまでに
01:10:08経済は回復しました
01:10:10しかし1991年
01:10:25バブル崩壊
01:10:26株価下落に続く不動産価格の暴落で
01:10:34日本経済は大きく減退
01:10:36企業の倒産や解雇が相次ぎました
01:10:39職を得られない日雇い労働者が
01:10:47街にあふれました
01:10:49公園や路上で生活をする
01:10:53いわゆるホームレスの人たちが全国で急増します
01:10:57大阪
01:11:10中島鎌ヶ崎でも日雇い労働者の多くが仕事を失い
01:11:14野宿生活となりました
01:11:16中島光雄さんもその一人です
01:11:22あふれたらもうしょうがないから
01:11:26もうどういう気持ちもあれも
01:11:28もう不安
01:11:29あ、ここ寝とかんとしょうがないから
01:11:31これあっち行って寝たり
01:11:32野宿ですか?
01:11:34うん
01:11:34野宿しとったんですか?
01:11:36うん
01:11:36ちょっとで青かんしたら
01:11:38しとったら俺上寝とったら青かんしたいなって言ったり
01:11:42木が木のとこで首吊り屋自殺をおったよ自殺する人は
01:11:55あの日雇うことはないわどうするかの
01:11:58これ首吊り屋俺はそこからそこの土屋の上から自殺はする人もおるし
01:12:06飛び降りて
01:12:07ダン
01:12:08飛び降りたらコンクに叩けた音出るよ
01:12:11ボケーッと
01:12:13もう抜けたが
01:12:14高度経済成長期に働き手だった人の多くは
01:12:2290年代に50歳を超え仕事を失いました
01:12:27地域の保健師だった亀岡照子さんは
01:12:32鎌ヶ崎で1995年に亡くなった461人を調べました
01:12:3926人は自ら命を絶っていました
01:12:49一番多いのが50代前半で亡くなる方が多いんです
01:12:56461人の中の16.8%77人が50代前半で亡くなっておられる数が多いんですね
01:13:07やっぱり日本の中でね
01:13:09こういうところがあるんやっていうのはすごくショックでしたね
01:13:13俺なんかどうなってもええんやとかね
01:13:16そういう方って結構多かったんです
01:13:19生きる望みがたまりないというか
01:13:23もう自分がやっぱり
01:13:26自分
01:13:27人間として価値があるっていう風に
01:13:30なかなか思ってない方もおられて
01:13:32だからほっといてくれって
01:13:34もうどうなってもええんやとか
01:13:36私はいつ死んでもいいやとかっていう方は結構おられました
01:13:441990年代半ばから新しい問題が現れます
01:13:49非正規雇用の増大です
01:13:54政府は規制緩和を進めていました
01:13:58労働者派遣法の改正を繰り返し
01:14:012004年までに製造業を含むほぼすべての業務で派遣が可能となりました
01:14:06非正規雇用と正規雇用の推移を示したグラフです
01:14:15派遣社員を含む非正規雇用は1994年に971万人
01:14:25労働者の20%でした
01:14:31その後正規雇用が減少する一方で非正規雇用は増え続け
01:14:352008年には1765万人
01:14:40全労働者の34%に拡大しました
01:14:44仕事をしたいという人に対してチャンスを与えるというのが
01:14:53労働派遣法の改正であります
01:14:56そういうのを伸ばしちゃいかんといったら
01:14:59私はまだ失業率というのは改善していなかったと思いますね
01:15:02IT企業や投資ファンドなどが注目されたこの時代
01:15:092002年から経済成長が続きました
01:15:16しかし2008年
01:15:21アメリカの投資銀行の破綻をきっかけに
01:15:25世界的な金融危機が起こります
01:15:27日本の株価も暴落しました
01:15:34工場は生産の縮小を余儀なくされていきます
01:15:382008年の大晦日
01:15:46仕事をなくした派遣などの非正規労働者が
01:15:50食べ物を求めて集まりました
01:15:53年越し派遣村です
01:15:57多くは失業保険もなく生活保護も受けていませんでした
01:16:06この年末年始どこも寝場所がない
01:16:11飯を食うお金がない
01:16:13駆け込む先がないと
01:16:15派遣村の村長を務めた
01:16:19湯浅誠さんです
01:16:21湯浅さんはこうした人たちが
01:16:26社会から弾かれることなく
01:16:28互いに助け合う仕組みを作ろうとしていました
01:16:32私は人間の定義が変わったと言っているのですが
01:16:39そういうことがあったのではないかと思います
01:16:42派遣の人たちなんかで
01:16:45かつてよく言われていたのは
01:16:47物扱いというね
01:16:48人件費ではなくて物件費
01:16:51それは経営側からすると固定費ではなくて
01:16:55流動費として扱うということですけど
01:16:56雇用の調整弁として
01:16:59流動費扱いできるような人を増やしていこう
01:17:02そうやって派遣拡大していった
01:17:03資益も拡大していったわけですが
01:17:05そういうふうにこう
01:17:08なんていうかな
01:17:10なりふり構わなくなっていく
01:17:13私が言っていたのは
01:17:16滑り台社会ということでしたけど
01:17:19それは雇用条件の悪い人ほど
01:17:26セーフティーネットがないという状態を言っていて
01:17:30路上に来る人とか
01:17:34生活困窮してしまっている人と
01:17:37会って話すとですね
01:17:39ほとんどセーフティーネットに引っかかってないんですよね
01:17:42それはどういうことかというと
01:17:45安定的に働いている人しか
01:17:50セーフティーネットって享受できない仕組みになっていて
01:17:53失業保険なんか典型的なんですけど
01:17:56失業保険は失業者の2割ぐらいしか
01:17:59今でもカバーしていませんけども
01:18:02多くの失業者は失業権を受けられるような
01:18:08働き方ができていないんですよね
01:18:10なので
01:18:11失業したときに失業権が効かない
01:18:14結果的に生活保護まで行ってしまうということになる
01:18:19止めてくれるものがないということですね
01:18:22もちろんその中で
01:18:24家族が歯止めになってくれる人はいいんですけども
01:18:28それもない人は
01:18:31本当に転落していってしまう
01:18:34年越し派遣村の翌年
01:18:38国は1965年を最後に途絶えていた
01:18:42貧困のデータを公表しました
01:18:45相対的貧困率です
01:18:51OECD
01:18:53経済協力開発機構と同様の計算方法で算出しました
01:18:58それによると
01:19:00相対的貧困率は90年代を通して伸び続けていました
01:19:05そして2012年には16.1%
01:19:11およそ2053万人が
01:19:15貧困ライン以下の所得で暮らしているという結果が出ています
01:19:19今国会では
01:19:25労働者派遣法の改正が話し合われています
01:19:29政府の改正案では
01:19:32企業が派遣労働者を受け入れる機関の制限を
01:19:36事実上撤廃し
01:19:38正社員を希望する人には
01:19:40その道が開かれるとしています
01:19:43今回の法案は
01:19:45正社員化を希望する方にはその道を開き
01:19:48派遣を選択する方には
01:19:49処遇の改善を図るためのものであり
01:19:51ぜひとも本国会において
01:19:53成立させていただきたいと考えております
01:19:565月に開かれた
01:20:01労働者派遣法改正に反対する集会です
01:20:05会場には若者や女性の姿が目立ちました
01:20:12労働者の間には
01:20:18派遣労働が拡大するのではないかと
01:20:21不安が広がっています
01:20:23明日食べること
01:20:28明日生きることを本当に精一杯になってしまいます
01:20:30未来を考えることができないということになります
01:20:33今の生活を追っていくのが精一杯なので
01:20:36その先のことを考えられないような感じになっています
01:20:39私の人生は一回きりしかありません
01:20:43その大事な人生を
01:20:46こういった派遣という不安定な身分のままで
01:20:52使われたくありません
01:20:541950年に始まった生活保護制度
01:21:02高度経済成長の中で
01:21:05その受給者は減り続けました
01:21:07しかし1995年以降は毎年増え続けていきます
01:21:142013年には216万人を記録しました
01:21:20これは戦後最大の受給者数です
01:21:26今から50年前
01:21:33朝日訴訟を引き継いだ朝日賢治さんです
01:21:38憲法25条をよりどころに
01:21:42生活保護の在り方を通った朝日訴訟
01:21:46当時のことを知りたいという依頼が
01:21:49多く来るようになりました
01:21:51朝日訴訟は憲法25条に基づいて
01:21:56朝日賢治さんは裁判を提訴して
01:21:59東京地裁で勝訴したのは
01:22:02憲法25条がやはり国民の権利として
01:22:07国が行わなければいけない
01:22:09行政をする側の義務として
01:22:12定められているからというふうに
01:22:14考え方でありますけれども
01:22:16ごめんなさい
01:22:18ありがとうございます
01:22:20講演をされると
01:22:27どんなお気持ちになりますか
01:22:29いや
01:22:29自分のことやら
01:22:35今のことやらいっぺんに思い出しちゃってね
01:22:39やっぱり悪いね
01:22:41こんなところに座って
01:22:43立って泣いちゃうね
01:22:45申し訳ないと思いますね
01:22:47泣いてしまうね
01:22:49あの時代のことと同じことが今起きているしね
01:23:04またあの頃のことに逆戻りでしょ
01:23:08やっぱりもう一度やらなきゃいけない時代なのかと思うとね
01:23:15やっぱりそれぞれの時代の健康で文化的な水準というのは
01:23:21私は変わらなきゃいけないと思うんですよ
01:23:24朝日和尚の時代はまだそれの上がそこに近かったんですよ
01:23:30だから格差があっても小さかった
01:23:33ところが今はその下はそのまんまで上がどんどんどんどん良くなって
01:23:38しかしこの一番下のところはほとんど上がってない
01:23:42当時と
01:23:43そこがやはり私は問題だと思う
01:23:47今は本当勝負の時だと思いますよ
01:23:50朝日訴訟が起きた時でもないような状態になって
01:23:54なりつつあるから
01:23:55戦後憲法第25条で健康で文化的な最低限度の生活を営む権利が
01:24:12国民に約束されました
01:24:14そして今
01:24:20日雇い労働者の町
01:24:23鎌ヶ崎
01:24:24毎日数百人が
01:24:27その日の宿を求めて
01:24:29無料のシェルターに並びます
01:24:32戦後
01:24:36豊かさを求めたはずの
01:24:40日本
01:24:40最低限度の生活が
01:24:46すべての人々に保障されるために
01:24:49私たちは何をすればいいのでしょうか
01:24:54憲法25条
01:24:58言葉としては非常に立派なことが書いてあるわけですけれど
01:25:02その内実といいますか
01:25:05実質といいますか
01:25:07それはきちんとイメージされてきていないんですよね
01:25:10今日に至るまで
01:25:12それをきちんとイメージを
01:25:16作っていくこと
01:25:17そしてそれを実際の制度として実現していくことが重要ではないかというふうに思います
01:25:25どうしても貧困という問題を
01:25:30非常に限定された人々の問題というふうに捉える視点が強いですからね
01:25:38最近特にそれが強まってきているというふうに思いますので
01:25:45そうではなくて
01:25:48社会の全体の人々の問題の保障があることがどれほど
01:25:55生きやすいですが
01:25:57生きやすい社会かというようなことがイメージできるといいではないかというふうに思いますね
01:26:04兵庫的に言うと
01:26:08仮に非正規でも
01:26:11夫婦共働きで年収400万円
01:26:14これで子どもが産み育てられて
01:26:18子どもが望むなら大学まで行かせられる
01:26:21そういう世の中を作っていくということだと思うんですね
01:26:26その状態を作っていこうとすると
01:26:32やはり教育とか場合によっては住宅とか
01:26:36そういうところにもう少しお金をかけていかないといけないと
01:26:39それが人々の生活を支え
01:26:43人々がより成長し
01:26:46引いては社会の成長をもたらすんだということですね
01:26:49ただこの考え方というのは
01:26:52ずっと言われてはいます
01:26:57言われてはいるけれども
01:26:58日本社会のメインストリームにはならない
01:27:03そこに何があるかって考えると
01:27:07不信感だと思うんですよ
01:27:11不信感
01:27:12そこに仮に
01:27:14この教育について
01:27:17投資を受けるAさんがいる
01:27:20そのAさんに流れたお金というのは
01:27:24そのままその人の中で消えていっちゃうんじゃないか
01:27:29社会に対してリターンが来ないんじゃないか
01:27:31そういうような不信感が
01:27:35やっぱり
01:27:36社会の中にあって
01:27:39ここが
01:27:41乗り越えられていかないと
01:27:44今私が言ったようなことも
01:27:48結局は
01:27:49言うことはできるんだけど
01:27:51社会のメインストリームにはならないという状態が
01:27:55続くんじゃないかと恐れています
01:27:57簡単ではないですが
01:28:00だからこそ
01:28:02その手前で
01:28:05人々の信頼関係を作っていくことが大事なんだというのが
01:28:13今私たちが
01:28:16今日からでも
01:28:18明日からでもやれることだろうとは思います
01:28:21ご視聴ありがとうございました
01:28:51ご視聴ありがとうございました