• 4 年前
最終回の対話では、レクビッツの数々の著作で主張してきた“組み込まれた自由主義”について、プレヒトが聞くところから始まる。「組み込まれた自由主義とは、後期現代の過去数十年に経験した経済、文化、技術のダイナミックであり、実際にそれに一定の規制システムを組み込んだ自由主義です」とレクビッツは答え、一定の規制システムとは、医療、住居、交通、教育などの公共財に対しては市場や個人に委ねられない構造を国家が確立することだと補足している。
またプレヒトは、「将来の社会に持っているもう一つの期待は、あなたの視点から推進化される個人主義が、言わば集団的アイデンティティと呼ばれるものとバランスをとらなければならないことにあります」と、集団的アイデンティティを問いただしている。
それは後にわかることであるが、プレヒト自身がコロナ以降の社会では集団的アイデンティティが必要不可欠と考えているからである。
それ故コロナ以降の社会に集団的アイデンティティを形成するため、「兵役義務は今ドイツでは停止していますが、廃止ではなく一時停止ですが、私たちは全てに兵役義務に替わる素晴らしい社会奉仕義務を導入できるでしょう。(私は)2年間の社会奉仕義務の提唱すらしたいと思います」と述べているのである。
そこには、プレヒトがコロナ以降の社会をどのように新たに創り出していこうと考えているか、手がかりが感じられた。
またレクビッツは政治的な社会学者らしく、「この危機から学んだことを(リスク政策)、第二の危機に移行することであり、それは地球温暖化の危機であり、私たちをより長くかかずらわせます」と提言で結んでいた。
尚この番組の解説では、今回の対談を読み解く鍵としてウルリッヒ・ベックの『リスク社会』(注1)が挙げられており、世界で高く評価されている社会学者の本は、チェルノブイリ原発事故を背景に1986年に書かれているが、コロナ危機の予兆のようにも見えると指摘し、人類の危険(リスク社会)は現代社会では戦争や自然災害よって生じることが益々少なくなっており、むしろ産業社会自体から生じていると述べている。
実際この本の冒頭でベックは、「貧困は排除することが可能であるが、原子力の危険は排除するわけにはいかない。排除しえないという事態の中に、原子力時代の危険が文化や政治に対して持つ新しい形態の影響力がある。この危険の有する影響は、現代における保護区や人間同士の間の区別を一切解消してしまう。」と、現代の産業社会が生み出したリスク社会をセンセーショナルに訴えている。
こうしたリスク社会は、産業社会のより豊かな社会を生み出そうとする営み自体が負の側面を生み出し(再帰性)、具体的な負の側面(近代性の自己加害)には、チェルノブイリ原発事故の前には薬害や公害などがあり、その後には福島原発事故を経て現在のコロナ危機や気候変動激化と益々現実化している。
このようなリスク社会は、産業社会を支えてきた科学技術、政治、官僚制では限界があることを分析している。
そして人間を区別なくリスクにさらすリスク社会の処方箋として、結論的に言えば、産業社会が生み出す負の側面(近代の自己加害)を公に晒し、リスクを回避できる社会を創り出すために、“不安の連帯”と“サブ政治”を提示し(注2)、道半ばの民主主義を徹底して行かなければならないと論じている。

(注1)Beck, Ulrich(東廉/伊藤美登里訳)『危険社会』法政大学出版局

(注2)“不安の連帯”とは従来の貧困からの解放としての連帯ではなく、危機の不安がつくりだす連帯であり、現在のように個人化が益々進む産業社会では危機の終息後は消え去るように思われるが、ベックは危機での個人化と集団化の矛盾した状況が概観され、その矛盾が認識されることで新しい文化的共同性を生み出し、政治を動かす市民運動や社会運動などの“サブ政治な”が活発化して行くことで、危機を回避する社会が創り出せるとしている(尚今回のブレヒトの主張には、ベックの「リスク社会」の影響が全面で感じられる)。

お勧め