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00:00今年は昭和100年 多くの犠牲者を出した戦争
00:22戦後の混乱から立ち上がり高度経済成長を駆け抜けた激動の時代でした
00:29鹿児島では昭和30年代 金の卵と呼ばれた若者が中学を卒業して都会へ
00:43不安よりは夢の期待ですね 人生の一歩だったような気がします
00:50世界への扉を開いた鹿児島空港 子供も大人も飛行機に夢中に
00:58キラキラの実が輝いてですね 本当に楽しかったですよ
01:04鹿児島で生まれた5つ子も日本中の注目を集めました
01:115人一緒に生まれたということで 特別に同行ということでなく
01:16ごく平凡に育てたいと思っています
01:19その後 少子化の波が押し寄せ 多くの学び屋が役割を終えることに
01:27地域の皆さん 僕の陶芸工中 声をかけてくださって どうもありがとうございました
01:33この開拓魂 力一杯頑張る そういう心を 栗の竹文工に残してくださって
01:43先人の思いは次の世代へ
01:49ルイジさんです
01:51アナウンサーになりたいと思いました
01:53夢と希望 挑戦が交差した 62年と14日間
01:59記憶のバトンは私たちの手に
02:07アナウンサーの開放です
02:15アナウンサーの関係長
02:17アナウンサーの関係長
02:51本谷さんは山口県周南市出身、昭和39年生まれの60歳です。平成の大合併前に3200市町村のすべて、そして海外136カ国を訪問され、人口転出問題や地域振興について積極的に発信していらっしゃいます。現在、ニュース2・3にも出演されています。
03:13では改めましてよろしくお願いいたします。
03:17本谷さん、鹿児島にはたびたびいらっしゃっているんですよね。
03:21そうです。私は治療宅なので全都道府県50回以上は行っていますけど、鹿児島は多分7、80回は来ているでしょうかね。
03:287、80回。
03:29広いですからね。親が九州旅行行くぞって言って、車で山口から延々と転がしてきたのが昭和47年。
03:38小学生の頃。
03:40小学校2年ですね。
03:42特にイブスキとかたくさんいらっしゃってましたよね。
03:44そこでそのイブスキに泊まりまして、当時のイブスキの賑わいを覚えています。
03:48さて今日は、本谷さんと一緒に昭和の記憶をたどり、次世代へのメッセージについて考えていきたいと思います。
03:57まずはこちらをご覧ください。
04:03列車の窓から身を乗り出し、別れを惜しむ学生服の少女たち。
04:10昭和39年3月の西鹿児島駅、現在の鹿児島中央駅の光景です。
04:1715歳の若者たちが、集団就職列車で鹿児島を離れました。
04:26見送りのお父さんお母さんだと思いますけど、
04:31いっぱいホームからあふれ出すような、
04:35周りはいっぱい涙ぐるんでいる人がいたと思います。
04:41どうしても忘れられない光景の一つですね。
04:47当時を振り返るのは、田原積田照明さん、73歳です。
04:54集団就職を経験しました。
04:58鹿児島では、昭和31年に、
05:01集団就職専用の列車が全国に先駆けて誕生。
05:05利用者数は、ピーク時の昭和38年から40年にかけて、
05:12毎年1万人を超えました。
05:14今からは、ほら、身も知らないところに行くわけですから、
05:22不安も少しはありましたけど、
05:26不安よりは夢の期待ですね。
05:31人生の一歩だったような気がしますね。
05:34田原積田さんは、現在、ガソリンスタンドや整備工場を、
05:43ふるさとの枕崎で営んでいます。
05:45OK!ありがとう!
05:49車の整備士になることが、幼少期からの夢でした。
05:53しかし、当たり前のように高校進学ができる時代ではありませんでした。
06:19うちの場合はですね、とりあえず中学校出たら、
06:24親に火星を吸ったよと。
06:26選んだんですかね。
06:27選んだというよりも、そういう仕組みだったんでしょうから。
06:31学校卒業したら働きに行くって。
06:35名古屋で町の整備工場に就職し、
06:39働きながら夜間の高校へ通いました。
06:43夕方、まだ仕事忙しいのに、
06:455時過ぎになったら学校に行って。
06:48学校が8時45分ですので、
06:51終わって家に帰って、
06:53社長より先に上がるわけにはいかないので、
06:56工場に行って、手伝って。
06:59それをしたいという自分の気持ちですから、
07:02国になるわけはないですよね。
07:054年で卒業した田原積田さんは、
07:08数年後、夢だった整備工場を地元に開業。
07:12進路の選択肢が増えた時代、
07:16自分の孫にも伝えたいことがあります。
07:19一つだけ感じるのは、
07:25ちょっと希望を持って、
07:27何をやりたいとか、
07:29そういうのをした方が、
07:31それを求めて仕事を探した方が、
07:36人生楽しいよと、
07:38こう言うんだけど、
07:40それはもう通じないような。
07:42まあ、それも我々みたいに、
07:46じいさんになってから分かるのかな。
07:50今、映像をご覧になってみて、
07:52本谷さんいかがでしたでしょうか。
07:53田原積田さんですね。
07:54この中におられたわけですよね。
07:56つまり、大昔の映像のように見えるけど、
07:59出ている人はみんなまだ、
08:00ほとんどピンピン生きていらっしゃった。
08:02いや、ちょっとほんのすぐこの間なんだなっていうね。
08:05だけど、この間、
08:06世の中はもうものすごく大きく変わりましたよね。
08:08変わったということを、
08:10みんなどれくらい分かっているのかな、
08:13ちょっと心配。
08:15これを経験した人はもう、
08:16出ていくのが当たり前と思っているでしょうけど、
08:18今の若い人、
08:19全然世の中変わりましたよ。
08:21当時は都会に行くと、
08:22売っているものから、
08:23来ているものから、
08:24全然違うし、
08:25僕の子供の時そうだけど、
08:26普通の家テレビないし、
08:27だから田舎は何もない。
08:30都会に行けば何でもあるって思って暮らして、
08:32田舎に持って帰ってこようと思って、
08:34田原積田さんは持って帰ってこられたわけだけど、
08:36今、この川島に暮らしている人ね、
08:39悪いけど、
08:40店で売っているものから、
08:41見ているもの、
08:42YouTubeから、
08:43世界中同じですわ。
08:44そういうふうに時代が変わったということを、
08:46改めて若い人は気にしながら見てほしいし、
08:50その一方で、
08:51これだけ鹿児島を豊かにしてくれた、
08:52先人の人たちの努力を、
08:54ぜひ生かしなきゃいけないですよね。
08:57さて、
08:58今日は鹿児島と日本の昭和の歩みを、
09:01こちら、
09:02大きな年表にまとめてみました。
09:05三坂さん、
09:06お願いします。
09:07昭和は62年と14日間で、
09:11歴代の元号の中で、
09:13最も長く使われました。
09:16昭和が始まったのは、
09:18西暦1926年の12月。
09:22昭和16年に太平洋戦争が始まり、
09:25鹿児島では、
09:26南九州市のチランチョウなどが、
09:29特攻隊の出撃拠点になりました。
09:31鹿児島大空襲では、
09:34およそ2000人が死亡するなど、
09:36県内各地で空襲の被害を受けました。
09:40昭和20年に戦争が終わり、
09:43アメリカ軍の統治下に置かれていた、
09:45アメリカ軍統が8年後の昭和28年、
09:49日本に復帰しました。
09:51ラジオ南日本が開局したのも、
09:54昭和28年。
09:56映像にもあった、
09:57集団就職列車が初めて鹿児島を出発したのは、
10:01昭和31年でした。
10:02戦後復興を経て、
10:05日本は高度経済成長期に入り、
10:08昭和32年、
10:10鹿児島空港が鹿児島市の鴨池地区に開港。
10:15そして、40年代にかけて、
10:17内野浦町や種ヶ島でロケットの打ち上げが成功し、
10:21昭和47年には太陽国体が開かれました。
10:25そして、日本で初めての五つ子が、
10:31鹿児島市立病院で誕生したのが、
10:33昭和51年。
10:37昭和63年には、
10:39鹿児島市の今木入京子さんが、
10:41ヨットで太平洋単独往復に成功。
10:45近江に入るまであと2日ぐらいだと思いますので、
10:49最後まで気を抜かずにやりたいと思います。
10:55その後、一度も港に立ち寄らない、
10:58単独無寄港の世界一周を、
11:00日本人女性で初めて達成しました。
11:10皆さん、ただいま!
11:14こうやって見ていきますと、
11:15鹿児島も日本も本当にいろんな出来事、
11:18まさに激動の昭和と言われる、
11:20そんな時代だったなと感じますが、
11:22本谷さんはどんな出来事が印象に残っていらっしゃいますか?
11:25昭和39年生まれなんですが、
11:27私、結構記憶が早くて、
11:2944年のアポロ付き着陸ぐらいから覚えてるんですね。
11:335歳ぐらい。
11:33そうなんです。
11:34ただ、その時すでに、
11:36内野浦ではロケット飛んでるぜっていうのは、
11:38僕は何てか知ってた記憶。
11:39それも知ってたんですか?
11:40我に言うのは好きだったんです。
11:42だから、かっこいいような行ってみたいな。
11:43で、ようやく昭和59年の春に、
11:48大学の自転車部の合宿で内野浦に行きまして、
11:51見ましたけども、
11:52大浦から佐田見崎まで通りまして、
11:56なんとすごい綺麗なところだと思いましたけどね。
11:59こうやって振り返った中で、
12:01我々もね、
12:02ちょっと印象に残ったことをお話ししていこうと思いますけども、
12:05私自身が、実は鹿児島に親の転勤でやってきたのが、
12:10昭和60年頃なんですけど、
12:12この頃、本当に桜島の土下売がひどくて、
12:16とにかく毎日母が困っていた。
12:19洗濯物も干せないし、掃除も大変だし、
12:23そんな印象はありますね。
12:24伊坂さん、どうですか?
12:25私はですね、昭和62年の国鉄の分割民営化に伴って、
12:31国鉄の大隅線が廃止になったことをすごく記憶していまして、
12:34私は大隅線の樽水駅のすぐそばに幼少期住んでいたもので、
12:39生活の中に鉄道、列車の音があったんですね。
12:43それが廃止線とともに列車の音が消え、
12:45街の風景が変わったことを寂しく思ったのを覚えていますね。
12:49あの頃は大隅線、渋谷線、宮の城線、山野線と、
12:52どんどん鹿児島から鉄道が消えていった。
12:54山野線だけは過労死で乗ったんですよね。
12:56そうですか。
12:58そういった昭和を振り返りながら、
13:00今日はまたお送りしております。
13:01さあ、この後は、世界への扉を開いた空港の歴史についてです。
13:15今日のこの時間は、昭和の記憶を映像で振り返る
13:18昭和からのメッセージをお送りしています。
13:21続いては、こちらをご覧ください。
13:23霧島市の鹿児島空港。
13:32国内線、国際線を合わせた乗降客数は、
13:36およそ555万人です。
13:40ドキドキしながら来ましたよ。久しぶりに。
13:42鹿児島空港ビルディングの前の社長、渡辺克美さん、82歳です。
13:52昭和41年、当時鹿児島市鴨池にあった空港の業務を受け負う
13:57南国交通に入社しました。
14:02初めて飛行機に乗ったのは、入社後の研修。
14:05宮崎への15分間のフライトでした。
14:11機体が傾くじゃないですか。
14:13その時に、落ちるんじゃないかなと思って、
14:16ここを持ったって、力を入れたってどうしてもないんですけどね。
14:21隣におばあちゃんが乗ったりですね。
14:23私が23歳の時でしたから、
14:27大丈夫、大丈夫、おばあちゃんから。
14:29鹿児島に空港が誕生したのは、昭和32年。
14:38歴史的な瞬間の舞台にも。
14:40昭和30年代には、航空機の高速化、大型化が進みます。
15:06そうした中、
15:07これから中型機の飛行機が発着するには、
15:12非常な無理な状況でありますので、
15:15このまま置いておきますと言うと、
15:17取り残されて、どうにもならない状況になりますので。
15:23滑走路が短いことや、住宅地に近いことなどを理由に、
15:28鴨池から移転されることに。
15:32地形や鹿児島市と30分で結べることなどを理由に選ばれたのが、
15:36霧島市溝辺の十三塚原です。
15:41騒音や家畜への影響を懸念する反発の声もある中、
15:45は、昭和45年3月、
15:49総工費およそ58億円をかけた新空港の整備が始まりました。
15:56そして、2年後の昭和47年、
16:00地方では初めてとなる国際線ターミナルを併用した、
16:04現在の鹿児島空港がオープン。
16:08子どもも大人も飛行機に夢中になりました。
16:14渡辺さんは、戦時中に苦労した親世代の人たちが、
16:18空の旅を楽しむ姿が忘れられないと話します。
16:21きらきら海が輝いて、本当に楽しかったですよ。
16:28遊ぶことも知らず、贅沢をすることも許されず、
16:33一生懸命頑張ってきた、戦後復興のために。
16:36その人たちに、お元気なうちに、
16:39外の景色も見ていただきたい。
16:42そのお手伝いができるというのは、
16:43非常に嬉しいなと思いながら、
16:46一生懸命やってきた。
16:47当初、170万人余りだった国内線の乗降客数は、
16:54平成元年に500万人、令和元年には560万人に、
17:01飛行機は身近な乗り物へと変わっていきました。
17:07国際航路も、香港を皮切りに、
17:09ナウルやバンコクなど、チャーター便を含め、
17:13これまでに20以上の国と地域をつなぎました。
17:17路線を拡大する中で、当時、渡辺さんに課されたミッションは、
17:23国際航路の利用者を増やすことでした。
17:27しかし、
17:29若い、特に男性はですね、
17:33学生から社会人になるときに、
17:36一番何を欲しがるかと言ったら、
17:37車を欲しがるんですね。
17:39非常に営業面では乱業しましたですね。
17:42企業などの団体客を中心に、熱心に利用を呼び掛け、
17:49乗降客数は、昭和の7200人余りから、
17:53平成に入り、初めて10万人を超え、
17:56令和元年には、最多の41万人に上りました。
18:00多くの出会いや別れを見つめてきた鹿児島空港。
18:10令和に入り、コロナ禍は国際線が全便運休となった時期もありましたが、
18:17世界と再びつながれる今、
18:20渡辺さんは、特に若い世代には、
18:22外の世界を見てほしいと話します。
18:26もっと海外に出かけようと。
18:30できるだけ自分の街から出かけようと。
18:32行った人が必ず何かを感じてくれるというふうに思っていますから、
18:37まず行って、見て、見る。
18:41それが大事じゃないかな。
18:44ご覧になってみて、
18:45本谷さん、いかがお考えでしょうか。
18:47いや、この鹿児島空港ですね。
18:50本当に全国の空港、私、使ってますけども、
18:53出来がいいですね。
18:54目の前に高速道路が接続してますよね。
18:57日本中のすべてほとんどの空港で、
18:58高速道路と空港が有機的に結合していません。
19:01福岡も都市高速ができるまで、
19:04地球周動が接続していない。すぐ横なのに。
19:06そうですね。
19:07千歳空港は、いまだに接続していない。
19:10鹿児島だけが最初から接続して、
19:11ちゃんと作られていたために、
19:13高速を走る、下に降りないバスでも、
19:15バス乗り場から歩いていけますね。
19:17というわけで、いまだに、
19:19ちゃんとお客さんを捌けるので、
19:20熊本みたいな道路の大混雑という問題が起きていないです。
19:24これをあの時代に作った人の、
19:26薩摩人の先見の名誉は、
19:28証拠修正感に匹敵するんじゃないかと、
19:30実は思う。
19:32私が子供の頃は、
19:33高速道路もまだ東京まで繋がっていなかった時代で、
19:36少しずつ繋がっていって。
19:39エビのループ、懐かしいですよね。
19:40格闘トンネルが通っちゃってから、
19:42本当にあっという間になってしまいましたけどね。
19:43いや、しかし、なんていうんですかね。
19:46ゆっくりゆっくり開けてくるんだけれども、
19:48繋がってみて便利になればいいかというとね、
19:50本当に完全に便利になると、
19:51一番南の端っこになっちゃうんですね。
19:53そうではなくて、
19:54不便だけども、
19:55わざわざみんな来るぞ、
19:56というぐらいの魅力がある、
19:58南の中心という意識をね、
20:00持ってほしいですね。
20:02さて、高度経済成長期には、
20:04交通インフラがこのように急ピッチで整備されただけでなく、
20:07鹿児島では血の利を生かした宇宙開発の拠点づくりも進みました。
20:15これまで400以上のロケットを打ち上げてきた、
20:18内野浦宇宙空間観測所。
20:21日本の宇宙開発の父と呼ばれた、
20:30東京大学糸川秀夫博士によって、
20:33昭和38年に作られました。
20:42観測所でロケットの点火に携わってきた、
20:46中部博夫さん、78歳。
20:48兵庫県出身で、内野浦で働くきっかけになったのは、
20:54中学生の時に見た新聞記事でした。
20:57高度経済成長期を迎えた1960年代。
21:19世界では、旧ソ連による人類初の有人宇宙飛行や、
21:26アポロ11号の月面着陸成功など、
21:29宇宙開発が加速しました。
21:33こうした中、日本にもロケット発射場を作る計画が持ち上がりました。
21:38その上で、必要な条件が、
21:42地球の遠心力が大きい赤道により近く、
21:46軌道となる東側に障害物がないこと。
21:51糸川博士が全国を探した中、
21:54この条件に当てはまったのが、
21:56内野浦でした。
21:57かつて、交通の難所で陸の孤島とまで言われることもあった内野浦。
22:18発射場を作るには、山を削る大規模な工事が必要でした。
22:22この工事を支えたのが、地元の女性たちで作る婦人会でした。
22:30作業員への差し入れだけでなく、
22:33スコップを手に工事にも参加しました。
22:37えー、こげなんとこに出くったらかいって思います。
22:41こっち一人、こっち二人でこうやって、
22:44石とか砂とか泥とか乗せて、
22:47まず道を作ったんじゃないですかね。
22:49難工事を経て、昭和38年に完成。
22:56町中が歓喜に沸きました。
22:59昭和45年、五度目の挑戦で、
23:02日本初の人工衛星の打ち上げに成功。
23:07地元への感謝を込め、大住と名付けられました。
23:10オルミンって手を叩いて、みんな喜んで。
23:18うーん、懐かしいね。
23:21上がった時も、もうすごい感激で喜んで、
23:27日の丸の旗も降ったと思います。
23:28白い煙を残して、ミュー5型ロケット5号機が、
23:38勢いよく空の彼方へと上昇しています。
23:43そして、平成に入り、
23:45内野浦を一躍有名にしたのが、
23:48小惑星探査機、
23:49ハヤブサの打ち上げ成功です。
23:53小惑星から微粒子を採取し、
23:567年後に地球に帰還。
23:58世界初の試みでした。
24:06帰ってきた、やったと思って、
24:09さあ、飲むかって感じで。
24:12忘れられないプロジェクトですね、やっぱりね。
24:18三坂さん、鹿児島では、
24:19昭和の時代に整備された打ち上げ施設、
24:22こういったものを生かした動きも盛んになってきていますよね。
24:25はい、日本国内には、
24:274カ所あるロケットの打ち上げ施設ですが、
24:30そのうち2カ所が鹿児島にあり、
24:32宇宙に近い県ともいわれています。
24:35国によりますと、
24:372022年に54兆円だった
24:40世界の宇宙ビジネスの市場規模は、
24:422040年には140兆円に拡大すると試算されていて、
24:48鹿児島では宇宙ビジネスを育てようという機運が高まっています。
24:52はい、本谷さん、
24:53鹿児島には2カ所の打ち上げ施設があるわけですから、
24:56この宇宙ビジネスという意味でも、
24:58鹿児島にとっては新産業、
25:00そういった可能性があるわけですよね。
25:03はい、例えば鹿児島の非常に有名なものが、
25:06食ですよね。
25:06はい。
25:07食産業は大変大きいですよ。
25:08例えば宇宙食の本当においしいやつの世界の開発拠点になるとか、
25:13鹿児島がその宇宙食の拠点になる。
25:15空でタンカンゼリーが食べれるとかですね。
25:17え、え、え、え。
25:18あるいはその宇宙で実際使うのを経験できる施設で、
25:22実際に宇宙食体験をすることによって、
25:25よりたくさんの宇宙食をどんどんみんなに消費してもらうとか、
25:28やりようによっては面白いやり方がいっぱいあるんじゃないかと、
25:31いろんなことを考えてほしい。
25:33その一方で機械産業、中に乗っける機械だとか、
25:35いろんな開発に関しては、
25:37鹿児島を中心に九州一円のものづくりと連携するということを進めてほしいですね。
25:44さあ、この後は日本中を驚かせたあの話題をお伝えします。
25:57今日のこの時間は、
25:59昭和の記憶を映像で振り返る昭和からのメッセージをお送り、
26:03さあ、ここで鹿児島県の人口の推移を見ていきたいと思います。
26:09三坂さん、お願いします。
26:11鹿児島県の人口は、昭和29年、戦後初めて200万人を突破し、
26:18昭和30年の国勢調査では、ピークの204万4000人に達しました。
26:25その後、右肩下がりの傾向が続き、昭和50年代には増加しましたが、
26:30平成8年以降は毎年減少していて、去年は153万1700人でした。
26:38さて、本谷さんは人口問題の専門家でいらっしゃるわけですけれども、
26:44大島県、このように人口が減ってまいりました。
26:46いかがお考えですか?
26:48これね、時期によって要因が違うんですよね。
26:51そして、きょうのまさに昭和のストーリーとぴったり一致しています。
26:53まさに戦後終わった後、段階の世代を中心に、
26:58その前後、非常にたくさんの子どもが生まれた。
27:00彼らが子どもでまだとろまっている間は人口が多かった。
27:03ここでガクッと減りますよね。
27:04まさに先ほど紹介のあった集団就職がいかにすごかったか。
27:10それで減っていったんですね。
27:11そうです。全国ここまでドラスティックに減ったところはそんなにはないでしょうね。
27:16非常に集団就職の意気が強い。
27:18維新をやった件だけのことはあると。
27:20デレってなんぼっていうのがあったんでしょうね。
27:22ここでもう一回増えたのはなぜか。
27:23先ほど田村積田さんも出てらっしゃいましたけど、
27:26一度都会に出た方が戻っていらっしゃってですね。
27:28そしてお子さんを大身になる。
27:30いわゆる段階ジュニア、ベビーブーマジュニアが生まれるんですね。
27:34そしてですね、その後これがゆっくり減って、
27:36ここでグッと減ってしまうのは、
27:38この後ですね、再びその人たちの絵が都会に出れてしまっていると。
27:44そしてあんまり戻ってきていない。
27:46そういう流れですね。
27:48我々が小学校の頃、社会で習ったのは180万と。
27:52習っていました。
27:53こんなにも150万も割ろうかというところまでなってしまうんですね。
27:58この時期ですね、鹿児島では有名な5つ号が誕生されたという。
28:02はい。
28:04昭和51年。
28:05もしかして同級生でいらっしゃいますか。
28:06そうですね。
28:07ほぼ同じ世代、1つ、1学年上かもしれませんが。
28:11ああ、いや、それは本当にね、鹿児島は小田区さんで元気、山下さんという名前の人は元気だねみたいなね、勝手なことを全国で言ってた時期ですが、考えてみると、これも段階の世代の方のお子さんなんですね。
28:225つ子という話が出ましたけれども、以前は3人、4人、5人きょうだいという方も多かった中で、最近は本当に1人、1人っ子も多い、2人いればちょっと多いねというような感じになってきましたけれども、最近、そういうきょうだいが多いという家庭、なかなか、三坂さん、耳にしなくなりましたよね。
28:41そうですね、こちらをご覧いただきたいと思います。
28:44女性が一生のうちに産む子どもの数、合計特殊出生率を示したグラフです。
28:51戦後の第1次ベビーブームの昭和22年は全国で4.54でしたが、昭和30年代後半に2を下回りました。
29:02第2次ベビーブームの昭和40年代後半には2を超えましたが、その後は減少傾向が続き、令和5年は1.20で過去最低を更新しました。
29:16鹿児島県は全国平均を上回っていますが、右肩下がりが続いていて、令和5年の1.48は過去2番目に低い水準でした。
29:26このように第2次ベビーブームまであったわけなんですが、そのころ生まれた世代が親世代になるといわれていた平成12年ごろ、そのころ、第3次ベビーブームが起きるんじゃないかといわれていましたが、結果、起きなかった、幻に終わった、このあたりは、どのようにお考えですか?
29:52恐らく言われているのは、やはりこの時期、非正規の労働者の人が増えて、普通に働いていて、普通に子どもを持つということがだんだん難しいような感じになってきた。
30:03もう一つ申し上げると、子どもというのはほっといても育つというか、そんなに教育にお金をかけなきゃいけないということは本当はない。いい学校に行ったからいい暮らしをするということはないのですが、やたらと塾その他で教育費にお金をかけなきゃいけない。何か特別な学校に行かなきゃいけないというようなプレッシャーがたくさん親にかかって、教育費が増えるようになったことが大きな理由。実は子どもがどんどん減っていますので、どんな教育を受けてようが、何だろうが働いてくれるというのは、お願いしますという時代になっているわけなんです。
30:31逆に大学へ行って、いい会社に入って、3年以内に3割ぐらいの人は辞めているという、非正規になっているというこの時代。
30:40何かその頭でっかちでお勉強ばっかりしているうちに、いつの間にか生きる力を失ってだんだん子どもが減っていく。
30:47これは社会全体がもうちょっと自然に変えるというふうに、自分を取り戻すことによっていずれ改善していくと思っています。
30:56三坂さんもね、お子さんがいますけれども、やっぱりこのお子さん、それからその友達も含めて可愛いですよね。
31:05そうですね。働きながら、そして二児を今育てているんですけれども、母親として感じることは、私が子どもの頃は母親が体調を崩すと、近所のおばちゃんとか親戚がそばにいて、私の世話をしてくれて、そういう環境で育ったんですね。
31:21ですので、地域の中で互いに支え合って、そして育児が誰もが育児を前向きに取り決めるような社会の空気の醸成が必要なんじゃないかなって感じ。
31:32三坂さんが育った頃の樽水の雰囲気から、今度は逆に議員にも普通に女性がいるような雰囲気を混ぜて、新しく近代化したけど温かさは昔のまんまって、そういう鹿児島を取り戻せるといいですよね。
31:44さて、この後は経済成長の受け皿になった住宅団地を振り返ります。
32:01この時間は昭和からのメッセージをお送りしています。続いてはこちらをご覧ください。
32:07昭和30年代から始まった高度経済成長期の人口急増の受け皿として開発が進められた住宅団地。
32:19鹿児島市の周辺では白洲大地を切り開き、昭和40年代から大規模な造成工事が相次ぎました。
32:26あちこち紫バルとかもできていたし、一式団地もできていたし、団地というのがあちこちできる時代だったので、期待感もありましたね。
32:49白山団地に住む石田久江さん、83歳です。
32:53造成前は、総武田地区に夫のみのりさんと2人の子どもと暮らしていましたが、
33:01子どもの進学をきっかけに、昭和46年に白山団地に家を建てました。
33:07一番長く住んだのは、白山団地ですよね。
33:14ふるさとね。白山団地なのかね。
33:19子育てもしたし、町内会でいろんな人たちとお付き合いして、また自分が育ててもらったわけだし、
33:29幸せな50年じゃなかったですか。
33:31高度経済成長期の憧れだった、庭付き一戸建てを求め、
33:40子育て世代の30代を中心に、団地への移住が加速。
33:45造成ブームから60年ほどが経過し、
33:48鹿児島市近郊の住宅団地は、現在、過疎や少子化に直面しています。
33:54もう今、若い人がまた飼ったりとか、世代交代になっているんですね。
34:05白山団地北部町内会の加入世帯は、平成16年で868世帯でしたが、現在は670世帯に。
34:16このうちおよそ100世帯は、一人暮らしの高齢者です。
34:23町内会は、平成20年から、高齢者の孤独死を防ぐため、見回り活動を続けています。
34:31隣近所を見守りましょうという、それとなく見守りましょうというのを作っていったものですから、
34:40自分も一人暮らしなので見守られているんですけど、
34:45お互いに見守ったり、見守られたりですね。
34:51鹿児島市内、高台を切り開いて、いろんな団地を造成してきましたけれども、
34:57VTRを見ると、いろんな問題もあるようです。
35:00ご覧になって、いかがですか。
35:02はい、全国に団地は数あれど、鹿児島ほど団地と市街地が真横にあって、
35:08コントラストになっている街はないですよね。
35:11ああ、そうなんですか。
35:12日本一の団地都市と言ってもいいんじゃないでしょうか。
35:14やはりこの火山の真横、しかもきれいな海の真横に大都市が発展した。
35:20もともと、鹿児島は農業を中心に観光するのか、非常に発展力があったために、
35:25その力を受けて鹿児島市が大発展したことによって、
35:28まあ、これだけの団地ができた。
35:30今、全国で起きていることはですね、ニコイチと言いまして、
35:33空き家が出てしまう。仕方ないので、そこのところを再園にしていくと。
35:39すぐ近くに畑、自分が伝わせる畑、団地の中なんで動物も出ませんので、
35:43楽しく再園ができるのがパラパラパラパラあるのが、
35:46昔は田舎と思ったけど、今むしろ逆に贅沢であると。
35:49そして、すぐ近くで、高速も近いですから、市内から行く渋滞もなく、
35:53ゴルフから、何からすぐ行けると。
35:56非常に近い、アーバン高原ライフを楽しめますよ。
35:59そういう形で再構成することにより、市街地の集合住宅、マンションだけじゃなくて、
36:06やっぱり、ちょっと自然に近い、すぐそこの団地の方がいいっていうお客さんを、
36:11もう少し掘り起こせますよね。
36:13団地には空き家も結構増えてきて、その空き家をどうするか。
36:18今度は家を取り交わすと、またそこで税金どうするかとか、
36:22いろんな問題が出てきますね。
36:24今のニコイチ、市民農園にするということになっていくと、
36:27税金どうするか問題があるんですが、
36:28これはですね、特区でも何度もいいんですが、
36:31やはり団地都市、鹿児島から働きかけて、
36:34ただの土地を空けてぼーっとしているのと、
36:37積極的に市民農園などに使うのでは、扱いを変えるとかですね、
36:41同じく空き家に関しても、逆にむしろ古いのがそのまま残っているよりは、
36:44取り壊した方が税金が安くなるとかですね、
36:47いろんなやり方を自分の頭で工夫して、
36:50むしろ国の政策を変えてほしい、
36:52まさに小さな維新をもう一回やってほしいですね。
36:54鹿児島からですね。
36:55さあ、それではこの後、少子化とともに増える平行を取り上げます。
37:10この時間は、昭和からのメッセージをお送りしています。
37:14さて、三坂さん、3月、県内各地で閉校とか休校とか、
37:20そういった話題を耳に今年もしましたね。
37:23よかったですよね。
37:25こちらは、県内の小学校の数を示したグラフです。
37:28第1次ベビーブーム世代が入学した昭和29年度ピークに減り続け、
37:36昨年度は477校と、この70年間で200の小学校が地域からなくなったことになります。
37:44有水町にある標高1094メートルの栗野岳。
37:53その中腹にあるのが、昭和22年に開校した栗野小学校、栗野岳文工跡地です。
38:001960年代には、およそ80人の児童がいました。
38:12ここに来れば、やっぱり、そう思うとはね、全部、全部浮かぶよ。
38:20二丹田道夫さん、77歳です。
38:24男6人兄弟の全員が文工の卒業生です。
38:30これは工程ですよ。全体が。向こうまで。
38:37なぜ小さいグラウンドだったよね。
38:42近くの住民らも参加した運動会。
38:45お手玉入れならぬ松ぼっくり入れや、丸太転がしは文工の名物競技でした。
38:54その頃も、まあ言うたら貧しかったよね、全員が。
38:58ああ、かごいま弁で言う、ひんにゃごろばっかり。
39:05道具中、道具がないんだから。野球省とかでそういうのが。
39:08戦後、国のだけの中腹には、二丹田さんの家族を含め、満州から引き上げた40世帯ほどが、山を開拓して暮らしていました。
39:22子供を近くの学校に通わせたいと、住民自ら校舎を作り、栗のだけ文工が誕生。
39:33二丹田さんの父、みのるさんも、文工作りに力を尽くした一人です。
39:38道のないところを送りの間で、一年生なんかが、そのいけるもんじゃないんですよ。
39:45だから、どうしても作らなくちゃいけないというようなね、
39:50そういう、それがあってみんなが団結したんだと、私は思います。
39:57しかし、平成元年、少子化が進み、42年の歴史に幕を閉じます。
40:08皆さんのお父さんやお母さん、おじいさんやおばあさん、この開拓魂、苦しさに打ち勝つ魂、
40:23力使い頑張る、そういう心を栗のだけ文工に残してくださって。
40:29在校生8人のうち、3人が卒業し、残る5人は、統合先の栗の小や、近くの小学校へ転校しました。
40:50栗のだけ文工が統合された栗の小学校です。
40:54昨年度の児童数は、173人。
41:00この30年で、半分以下に減りました。
41:05平行の波は、身近なところに迫っています。
41:17山田校長が大事にしているのが、子どもたちと面と向かって話すこと。
41:24物や情報があふれる時代だからこそ、自分で考える力を持ってほしいと考えています。
41:34自分の興味のあることは、とことん突き詰めて考えられる大人になってほしいなって。
41:45やはり学校というのは、地域の住民にとって、一つのよりどころであったわけですから、
42:03なくなるとやはり寂しいという声もよく聞かれますよね。
42:05そもそも日本の小学校は、多くの場合、明治時代に国が作れと言うんだけど、お金がなくて、
42:12地域の人たちがお金を出し合って作ったところが圧倒的に多いんですね。
42:17今の国のだけ文工に至っては、戦後に地域の人が労力を出し合って作ったというのを聞いて、
42:23昭和の明治、そういうことがちゃんとあったんだなと改めて思いました。
42:27昭和にもそういう明治時代にあったことは鹿児島ではあった。
42:29そういうことですね。やっぱり作られた方の顔の品の良さ、地域のことを思っている、
42:35こういう綺麗なお顔というのは、今僕らはあんまり見なくなったなと。
42:40つい先日、解剖学者の与朗武先生のお話、たまたま彼がこれについて喋っているのを目の前で聞いたんですけども、
42:47彼は言ったんですね。
42:49いや、一体いつの時からたくさん人数を集めた方が育つって、どういう考えで言い出したんでしょうね。
42:55これね、子供が減ったから学校を減らして効率を上げるというこの考え方は、
43:00子供を効率とか言い出した時点で、もう国が終わっています。
43:03どこかの県が国はバカなので、うちはもう子供を大事にするので、
43:07他を削って学校は削りません。少人数学級ウェルカムと。
43:11逆に都会の街の大きい学校に行っている人ね、
43:14小学校、中学校、三村留学しなさいよって、進めるべきだと思うんです。
43:20現に東部では、島の中ではやっているところもあります。
43:23そうですね。三村留学、鹿児島でもありますね。
43:25そうです。そういうことをもっともっと日本のスタンダードにしていかなきゃいけない。
43:29この学校等配合というのは、後世ですね。
43:32この時期に削るところを間違えた、日本の最大の失敗の一つと言われることは間違いない。
43:38鹿児島からまた一つ考え方を変えるというようなことができるといいですね。
43:43人間を大事にして、やはりそこから人材を育てたという歴史伝統を持っている鹿児島、頑張ってほしいんですけどね。
43:50令和を生きる我々に、どのような姿勢が求められるのか、一つ今、そんな話もあったと思いますけれども、改めてどのようにお考えですか。
44:00いや、昭和の途中から生きてた人間とするとね。
44:03いや、いい時代ですよ、今は。
44:05どうしてこれだけ豊かで清潔で、電話も、携帯もあれば、ウォシュレットもある出会いに来ている僕たちが、
44:12なんで今ダメだ、暗い、辛いって言っているのか。
44:15じゃあ昭和に戻ってごらんなさい。あの時代のトイレとか行ってごらんなさい。
44:18大変です。
44:19そうじゃなくて、本当にみんなが頑張って、昭和の人が頑張った結果、
44:23だから今世界で稀に見る、清潔で、安全で、食べ物がおいしくて、好きに楽しくできる国ができたんですよ。
44:32それがしかも東京と違って、鹿児島には本当に豊かな自然と、おいしい食べ物と素晴らしい空気が残っている。
44:39これをどうやって楽しむかということが昭和に対する恩返しだし、
44:45それが仮につまらないと思うんだったら、さっき、飛行湖のところに出てきましたよね。
44:49ぜひ世界に行って見てきてほしい。
44:51いかに自分が恵まれているのかということを分かった上で、
44:55じゃあさらにこれを、さらに変なところはどう直して、
44:58よく育つにつなげるんだろうかって、そういう夢が生えてくるんじゃないでしょうか。
45:04今日は地域エコノミストの本谷光塚さんにいろいろお話を伺いました。
45:08ありがとうございました。
45:09どうもありがとうございました。
45:10それでは、今夜はこの辺りで失礼いたします。
45:21ご視聴ありがとうございました。

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