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教育トランスクリプション
00:00今年は戦後80年です
00:03日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏したあと
00:08戦勝国によって戦争犯罪が裁かれることになりました
00:12アメリカ兵の捕虜を殺害したとして死刑を宣告された男性が
00:18スガモプリズンで6年分の日記を残していました
00:2279年前1946年から書かれた6年分の日記日記が書かれた場所はスガモプリズン戦犯戦争犯罪人が捕らわれた場所だ
00:458月30日 金曜 晴れ
00:53午後2時入所
00:56所持品検査 健康診断
01:01予防注射等を済ませ 独房に落ち着く
01:07室内設備の広さ 約3畳
01:12机の蓋を取れば洗面台
01:14椅子の下は水洗便所
01:18家族とへだつること300里
01:24ふるさとに同じ虫の音を聞きつつ
01:29第一夜の心に着く
01:32この日記を書いたのは東寺健太郎
01:41健太郎の三男克也さん
01:43父は日記に何を残したかったのか
01:49残された人たち 家族も含めてですね
01:53自分 特に子供たちに対して
01:57父親がどういう人だったのかと
02:02何をやって どうやって
02:04死刑で自分の命が失われるということは
02:09もう覚悟していたので
02:10どうやって死んでいったのかと
02:12それともう一つはですね
02:14事実 何があったのかということを
02:19残しておきたいというものがあったんじゃないでしょうかね
02:24当時健太郎は福岡市で和文具店を営む博多商人の家に生まれた
02:34母の愛情を一心に受けて育った健太郎は
02:47東京商科大学 現在の一橋大学に進学
02:53卒業した年に招集され
02:561939年 結婚したばかりの安代を残し
03:0225歳で中国へ出征する
03:06福岡城の後に置かれていた西部軍に
03:16注意として臨時招集されたのは1944年2月そして運命の日が訪れる1945年6月19日深夜11時過ぎ福岡の街を米軍機が襲う
03:42飛来したB29爆撃機は221機投下された焼夷弾およそ1500トンが市街地を焼き尽くした死者行方不明者合わせて1000人以上その一人になった母歌の遺体に接した健太郎は
04:11当事主はお母さんとひと言軽く声をかけられ泣き崩れました西部軍司令部には九州一円に墜落したB29の搭乗員たちが集められていた健太郎は庭の隅が騒がしいことに気づき様子を見に行くとそこで搭乗員たちの
04:41私は処刑者として最もふさわしいものだ自ら処刑を志願した健太郎は刀を刈りアメリカ兵1人の首を切ったその後さらに命令によって3人の命を奪った
05:07戦争が終わった後健太郎はBC級戦犯として菅野プリズンに収監された
05:18妻安代が1歳の次男を連れ面会に訪れる
05:26安代ありがとう遠い福岡からはるばると子供を連れ汽車の混雑に揉まれての旅はどんなにつらかっただろう
05:40私はただ君の顔を見ただけでありがたさに涙がこぼれそうになったしかし私たちの間に貼られた金網が光って霞がかけたようだ
05:58菅野プリズンまで面会に行った記憶がある健太郎の次男信也さん
06:08欲は詳しくは知らなかったから親父ともあんまり会ってないし小さい頃はですね
06:15だってあの校中にいましたから死刑囚だったんじゃんなんかねそういう状況の中でなんか僕を連れてですね私の母が私に行こうって言って
06:28親父に会わせたかったんだと思うんですよね
06:32多分母の気持ちでした夫がいない中安代は文具店を新層開店し商売を続ける
06:45君は私のため子供のために必死の戦いをしている私も戦わねばならぬ
07:01君は世の荒波と戦う私は静かに自分自身と戦ういずれもこの運命との闘争である
07:17アメリカ軍によって開かれた横浜軍事法廷
07:27捕虜の虐待や殺害がBC級の戦争犯罪として裁かれた
07:35健太郎がいた西武軍で殺害された捕虜はおよそ40人だった西武軍事件の主任弁護人はアメリカ人のフランク・サイデルそして健太郎を担当したのが横浜弁護士会の桃井刑事だった午前中桃井弁護士と会う
08:04私の弁護について非常に困難で
08:09処刑者中最悪の条件にあるという
08:15私もそう思います私は処刑者としての責任は喜んでおいますが
08:24殺人者としての罪は帰宅ありません
08:29健太郎は法廷で承認台に立つことを望んだが願いはかなわなかった判決間近菅野プリズンの若い監守と健太郎との会話が日記に記されていた今でも君は米兵に対して怒りを持っているか?
08:59いや全然持っていない
09:03今は母はアメリカ人に殺されたのではなく
09:08大きな戦争のために死んだとしか思っていない
09:144人処刑した時はどんな気持ちだったか?
09:21志願するまでは本当に怒っていたが
09:25処刑の位置に着いた時には
09:28ただ立派に処刑を遂行することより他は考える余地がなかった
09:35後で私の妻にこの処刑のことを話したら
09:40妻はその飛行士たちには奥さんや子供があったでしょうと言った僕は言葉がなかったしかしこれが戦争というものだと思った
09:59この翌日菅野プリズンでA級戦犯7人の死刑が執行される死への恐れと緊張が高まっていたそして12月29日ついに来るべき判決の日は来た
10:27公主刑これが私に与えられた判決である
10:38先般死刑囚となった健太郎はこの時34歳気持ちを切り替え最新に原刑の望みをかける
10:54安代も探案書を集め署名活動に奔走する
11:01そうした日々の中
11:06死刑を執行される人々が旅立っていく
11:12アメリカ兵の捕虜3人が殺害された石垣島事件
11:207人の日本兵が死刑になった
11:25そのうちの一人28歳で命を奪われた藤中松尾一刀兵装
11:36健太郎は別れの挨拶に来た7人の様子を日記に書き留めていた
11:455人目は藤中君これも笑顔で某の前に現れた
11:54とうとう行きますよ仕方がないです
12:00どうせ行く先は一緒です再会を楽しみにしていますよあなたたちは助かってくださいいやどうせやられます元気でおよきなさいありがとうございますじゃあ
12:271950年4月7日7人の死刑執行13と書かれた扉の奥に公主台があったその後菅野プリズンの状況が変わる
12:516月25日朝鮮戦争勃発
12:58北朝鮮の軍隊が北緯38度線を超え南部への進撃を開始
13:06アメリカ軍を中心とした国連軍が韓国を支援する
13:137月11日西武軍全員原刑のほう
13:22今朝のラジオニュースによれば西武軍事件7名無機に原刑の旨発表されましたとアナウンスしそれに応じて大勢の拍手が聞こえた
13:36健太郎は終身刑に原刑石垣島事件の死刑執行を最後に菅野プリズンでの処刑はなくなったその3日後7月14日米兵出発
14:03艦首から近日中にここは日本政府の管理に移され米兵は全部朝鮮へ出動することすでに一部は出発したことを聞いた
14:20これらの兵が北戦軍の重下にバタバタと死ぬのかと思うと私は可哀想でならない
14:31彼らもすっかり憂鬱な顔をしている
14:34戦争は
14:38嫌だ
14:391951年サンフランシスコ平和条約
14:48調印死刑から原刑された当事件太郎はこの頃処刑された戦犯たちの遺書をまとめることを思いつき発起人となった
15:04やっぱり命が流れて亡くなった方々のためにもですね自分たちが自分が精一杯やらなくてはいけないという思いはあったと思いますよ
15:171953年に刊行された正規の遺書
15:25菅野プリズンだけでなくアジア太平洋で戦犯として命を絶たれた701人分の遺書が収録された
15:38子供は軍人にはなすな
15:43時世が変わってもだ
15:46これはししそんそんに伝えよ
15:51戦争がいかに残酷なものであるかということは
15:56みなよく知ったことと思う
16:01いかなることがあっても
16:05戦争は絶対反対
16:08を
16:09命のある限り
16:12子にも孫にも叫んでいただくとともに
16:17世界永遠の平和のために
16:22貢献していただきたいことであります
16:261956年
16:3310年の月日を菅野プリズンで過ごした健太郎は
16:38仮出所し福岡へ帰る
16:43そして妻が守ってきた文具店を手伝い始める
16:51健太郎の息子たち菅野プリズンが亡くなる際の式典の映像を初めて見た控えめに橋に座る44歳の健太郎
17:12親父やん
17:191958年最後の18人の出所式
17:27若いねん
17:28これ面会室って書いてあって ここ行ったんやね
17:31行ったよ
17:32ねぇ
17:33面会室行ったよ
17:34なんか
17:37うれしそうやね
17:38うれしそうやん
17:39うれしそうやん
17:40こんな顔
17:51死ぬことを覚悟したはずだもんね
17:54だからうんやっぱり経験ないことよねうん覚悟したはずだもんうんだから僕を連れて行ったよ僕らうんうんねえ健太郎は思い切って福岡の一等地に店を構え商いを大きくした
18:24地元のテレビ番組で戦争についても語っていた
18:31お前たちは日本がいや私はねええへ秘書に戦時中であるといっても無抵抗な人間をね自ら四眼して4人も斬るなんていうこと言語道断だと日本国民はね被害者意識が非常にそれを世界中に訴えようとしておりますけど加害者としての反省が国民的な反省がないと思います実は本当の愛国心というものは自分の国があっていることで怖いですね世界中で日本の反省が平成長
18:37日本国民は被害者意識が非常にそれを世界中に訴えようとしておりますけど
18:51加害者としての反省が国民的な反省がないと思います
18:55実は本当の愛国心というものは
18:59自分の国が周囲の国々から愛される国にすることだと
19:05だから我々が持っておったかつての愛国心というのは間違ってたんだと
19:11ケンタロウはアジアからの留学生の支援に力を注いだ
19:20自宅に招き留学生たちをもてなした
19:29いつも当日さんはお世話になっています
19:32優しい人ですね
19:35軍人として大東亜戦争に参加した一人ですけれども
19:40その当時日本の軍隊はアジア諸国に大変な迷惑をかけてますよ
19:451983年
19:51健太郎は心不全で倒れ
19:5468歳の生涯を閉じた
19:58健太郎はアメリカ兵のために地蔵を建立していた
20:07自分が手にかけた人数と同じ4体の地蔵
20:12国民と国民の間には人と人との間にはですね
20:18何の恨みもないんですよね
20:19そこを無理やり恨みを持たされて戦わされるという
20:23そういうその矛盾がですね
20:25戦争にはあると思います
20:27そういうものをですね
20:29私たち一人一人が感じ取ってですね
20:34戦争を回避していくというものが
20:39必要なんじゃないかなというふうに思います
20:41外国人観光客も行き交うJR東京駅前の広場
20:54駅に向かって手を広げるこの像は
21:00健太郎らが先般たちの遺書をまとめた
21:04正規の遺書の収益金で作られた
21:07像には何の説明もなく
21:13ただギリシャ語でアガペ
21:16愛とだけ刻まれている
21:20史上の愛という意味でしょうかね
21:24戦争というものに対してですね
21:28愛というもので応えていくと
21:31ということをこの像を作った人たち
21:36思ったんでしょうかね
21:38でも愛というのはね
21:42世界共通の大事なテーマであって
21:46誰とでも愛については語れる
21:48どこの国の人とでも語れる
21:51そういう見合いがあるんじゃないですかね
21:55どうぞどうぞ全然全然大丈夫でしょう
21:57若い人たちが記念撮影をしていた
22:05愛の像は静かに平和を訴えている
22:18取材したRKBの大村由紀子ディレクターです
22:24今年は戦後80年ということでこうした戦争の側面は伝えていかなければいけないと改めて感じますけれどもこの愛の像というのはいつ作られたんですか?
22:371955年になりますので終戦から10年のタイミングです
22:41A級戦犯は皆さんご存知だと思うんですけれども国の指導者ですね
22:47でもBC級戦犯は現場の兵士などいわゆる普通の人たちが戦犯に問われました
22:52この戦犯ということが重くて周囲から厳しい目が注がれたこともあってご本人もそれからご家族も口を閉じて語ってこなかったというそういう風潮があります
23:04それで多分愛とだけ刻んだというふうにも思います
23:09東条英樹元首相をはじめとしてこのA級戦犯については学校で学びますけれども一方でこのBC級戦犯というのはあまり知られていないですよね
23:22横浜裁判が日本で唯一BC級戦犯を裁いているんですけれどもアジア太平洋で50の法廷で裁かれて実は死刑執行された方は920人もいらっしゃいます
23:35でも、その事実はあまり知られていなくて、資料もないもので、遺族の方もなんで戦犯になったか、どうやって亡くなったかも知らない方がたくさんいらっしゃるんですね、当時さんはそういった方の遺書を世に出そうとして、正規の遺書を作るということで発起になられました。6年にわたる日記を読むと、当時さんが戦争を繰り返してはならないという強い思いを持っていらっしゃったことがよく伝わりました。
24:03ご視聴ありがとうございました。