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00:00世界の人間として我々が付き合ってもらえるようになっていくには、
00:28まず真心という、これは日本人が大好きな言葉ですね、真心というものを世界の人間に対して持たなきゃいけない。
00:38そして相手の痛みとか歴史なりをよく知って、いろんな事情というものを自分に身につまされて感じる神経ですね。
00:53そういう神経の人々がたくさん日本人の中に出てくることによってしか、日本は生きていけないんじゃないか。
01:03それでね、こんな汚いですけれども、ここでいつも休憩してね、寝っ転がって、資料なんかを読んでたんですね。
01:25それでこのね、なんだか土管みたいなのがあるでしょ、ここ。
01:31これをね、知り合いの方がね、持ってきてくださってね。
01:37持ってきてくださってね。ここに菜の花がね、いっぱい、いっぱい増えて。
01:45それから菜の花が終わると、つゆ草も好きだったのね。
01:49つゆ草はね、あれしても、今年はダメですけどね。
01:55ご視聴ありがとうございました。
02:07ご視聴ありがとうございました。
02:37平成3年11月、柴良太郎は国から文化功労賞を受けた。
02:56その会見の席上、彼が語った言葉に居並ぶ記者は息を呑んだ。
03:03どうして日本人はこんなに馬鹿になったんだろうというのは、22歳の時の感想でした。
03:09昔は違ったろうと。ここから私の小説が始まるんですけども、昔は違ったろうというようなことを思うんですけども、知識がないものですから、昔は違ったに違いないと。
03:25そうでないと、日本はここまで生き延びてこれなかったんだから、昭和になって悪くなったに違いないと思ったんですが、昔はよくわからなかった。
03:3935、36歳の頃から、その時22歳ですから、少しずつ文献、資料、その他を読み始めまして、もう私はもう本当に22歳の自分へ書いている手紙でした。
04:01手紙でした。私の作品というのは、両駒が雲もそうでしたし、坂の上の雲もそうでした。その後もそうでした。
04:11日本人とは何ぞやということがテーマでした。
04:17昭和35年、柴良太郎は、同人誌近代説話に載せた小説を開題した、「袋の城で直木賞を受賞した。」
04:26その後、50を超える作品を世に送り続けてきた。
04:31しかし、脱炭疾風録を最後に、8年前から小説は途切れる。
04:37平成に入ると、土地問題や心の在り方などへの発言を続け、今年2月、72歳でこの世を去った。
04:48人間柴良太郎は、我々に何を伝えたかったのか、彼の思考の軌跡をたどる。
04:56柴良太郎さんとは、新聞社の文化部時代に大阪でお会いしたのが最初でして、ちょうど近代説話という雑誌を寺内大吉さん、
05:17されるのに、後に黒岩十五さんだとか、伊藤圭一さん、長井道子さん、清水昌二郎さんたちとやったんですが、
05:28私も、だからその頃に一緒にこの近代説話に加わって、いろいろと、主として評論ですが、書きました。
05:38そういう意味では、この近代説話時代というのは、私たちの仲間にとっても、本当に思い出深い雑誌でした。
05:53私は大崎さんと違って、近代説話という雑誌が、同人雑誌であり、一般の人には目が触れられない雑誌でしたから、
06:04そこに掲載された作品というものが、雑誌を通して読むことはできなかったんですけれども、
06:13後に本になりまして、そこに載せられている作品というのは、非常にショックを受けたんですね。
06:22芝氏観というか、芝さんの歴史への迫り方ということに触れて、芝さん自身も書いていたことなんですけれども、
06:35ちょうどビルの屋上から下を行く人たちの姿を俯瞰する魅力、これが歴史文学の一つのポイントだという言い方をしていたことがありますけれども、
06:53それは、ただその人生、完結した人生を上から見る、あるいは下から見るということだけではないんですね。
07:04やっぱり路上を歩いている人間というのは、その曲がり方でどうなるかわからない。
07:10明日の自分の命というのも予測できないという、その予知できないいろんな問題を含み込みながら、
07:19いわば歴史の中の人物というのは動いているわけで、それまでを俯瞰していくという、その可能性というのがあるわけなんですね。
07:33だからもう全部完結したあれを、ただ手のひらに乗せて、それを見ているということではなく、
07:40いろんな人のプラス面もマイナス面も、それから明日の自分の運命も、それから夢がどう実現するかということも、その本人はわからないけれども、
07:53こっちはそれまで見ていける。これが歴史小説の一番のポイントだということを言っていたけれども、
08:02やはりそれは芝さんの歴史文学の一つのポイントになるんですね。
08:11昭和37年から1335回にわたり、産経新聞に連載された龍馬が行く。
08:19芝にとって初の新聞連載小説であった。
08:24直木賞受賞の時に吉川英二が勉強不足だと言ったと聞いた芝は、
08:29この連載に当時のお金で1000万円近い取材費をかけた。
08:34膨大な資料と緻密な取材をもとに、新しい坂本龍馬像を浮かび上がらせ、龍馬を発見したとさえ評価された。
08:44芝は自らの歴史小説のスタイルを確立したのである。
08:55日本史の人物の中で、坂本龍馬ほど男としての魅力に富んだ存在はないと思うのだが、どうだろう。
09:03この底抜けに明るい、しかも行くとしてかならざることのなかった、勘のいい一人の天才を描きたい。
09:20坂本龍馬は、維新史の奇跡と言われる。
09:24龍馬だけが型破りである。
09:26この方は、幕末維新に生きた幾千人の死士たちの中で、一人も累齢を見ない。
09:33日本史が坂本龍馬を持ったことは、それ自体が奇跡であった。
09:39なぜなら、天がこの奇跡的人物を恵まなかったならば、歴史はあるいは変わっていたのではないか。
09:48芝さんの戦後の歴史文学といいますか、それは龍馬が行くにしても、国取物語にしても、その後のいろんな作品、いずれもですね、
10:10一つの共通した視線といいますか、それがありました。
10:20それは、言ってみればですね、戦前からあった吉川英二の文学をさらに継承し、発展させていったところで、歴史文学と言われ、同時に国民文学というようなことを言われましたけれども、
10:45その中に共通してあったというのは、現代と称をして歴史を捉えるという、そういう発想だったんですね。
10:57これは単に歴史のことを措置するということではなくて、現代的な視点から捉え、そして歴史というものと称をさせるという発想が強かったわけで、
11:13そこに国民文学としての広がりを用いたのだろうと思いますが、
11:20だからこれはジャンセンさんが言っている言葉でもありますけれども、
11:25坂本龍馬がですね、国民的な英雄となっていく過程は、日本近代というものの国家主義の発展を照らし出す、
11:35格好の材料だと、一例であるという言い方をしていますが、この柴さんは龍馬という人間をそこに捉えることによって、
11:47せめてというか自分自身の思いというもの、それは戦争から福音して、
11:56言ってみれば文学への福音だったわけですが、この22歳にして、この小説のありに出発するというね、
12:09この思いというのは龍馬を描くことによって結晶化されていったという感じがしますね。
12:18そういう意味でも、柴さんというのはやっぱり戦中体験としてですね、
12:23周りの若い人たちが、可能性を秘めた人たちがどんどん倒れていったわけですから、
12:30やっぱりそこに龍馬に重ね合わせた部分が多かったと思いますね。
12:35昭和18年、大阪外国語学校の猛攻科の学生であった柴龍太郎は、学徒兵として徴兵された。
12:52本名、福田定一、20歳だった。
12:57翌年、満州に渡り、対ソ連戦に備えて配置されていた戦車第一連隊に入営した。
13:06この時の軍隊経験が、柴の拭いがたい国に対する不信感を抱かせることになった。
13:15日米海戦から4年、日本の経済状況は悪化しており、柴の連隊の戦車も改造される度、見かけだけは大きくなるものの、その材質は粗悪になっていった。
13:29柴は、この戦車に日本の姿を見た。
13:34この三式戦車を特徴づけるその大きな砲塔を、ヤスリで削ってみようと思ったのである。
13:43かすかながらギシギシと手応えがして、驚いて手を止めてその部分を眺めてみると、白金色の削り傷ができていた。
13:55こんな馬鹿げた話はなかった。腐っても戦車ではないか。
14:01それが装甲用の特殊甲でもなんでもなく、ただの鉄に過ぎなかったのである。
14:10ただの鉄という戦車は、戦車の歴史で例がなく、
14:14昭和の陸軍首脳がいかに戦争指導能力に欠けていたかを証拠立てている。
14:23このことは、私個人の太平洋戦争史にとって最も重要な事実のひとつである。
14:334年に1人、戦車が担当さされるわけです。
14:41それ、僕と一緒だったの、担当。
14:46ところがこの戦車は、8ヶ月間、実は私兵衛がいるところを思ったんだけど、
14:56私兵衛の戦車学校で、8ヶ月間、僕らがいた間、一度も動けたことがない。
15:05最初からどんな人でも動かないんだよ。
15:11装甲は薄いし、太平洋のための600メートルか、有効射程距離が。
15:21アメリカのアメリカのシャーマンだったら、1000メートル、2000メートルから太平洋を撃っちゃうんだろう。
15:31戦争にならないことは、僕らはどっこによく承知していたけどね。
15:37昭和20年、日本の戦局は悪化の一途をたどっていた。
15:48この年、芝の戦車第一連隊は、本州守備隊として満州から栃木県の佐野市に移った。
15:59福田定一、22歳にならんとする夏。
16:03満州での戦線が崩れていく中で、本土を守るためにすでに死を覚悟していた。
16:13私は毎日のように街を歩いた。
16:16この街は、絹織物による富の蓄積のおかげで大きな家が多く、
16:22軒下などで遊んでいる子どももまことに小柄が良く、
16:26自分がこの子らの将来のために死ぬなら、多少の意味があると思ったりした。
16:32が、ある日、その愚かしさに気づいた。
16:36この辺りが戦場になれば、まず死ぬのは、兵士よりもこの子らなのである。
16:42敵が上陸してくる場合、北関東にいる我々は、それぞれ所定の道路を使って南下する。
16:54その溶撃作戦などについて説明すべく、大本営から人が来たことがあった。
17:00東京や横浜には大人口が住んでいるのである。
17:06ものすごい人数が、大八車に火災道具を積んで逃げるべく、
17:12道路を北上してくるに違いなかった。
17:15戦車が南下する。大八車が北上してくる。
17:19そういう場合は、どうなっているのだろうか。
17:24しばらく私を睨み据えていたが、やがて公然と、
17:29引っ殺して行け、と言った。同じ国民語である。
17:35東京から避難して、北関東へ上がってくる人とか、
17:46そこにいる女の子とか、ちっちゃい子とか、真っ先に死にますでしょう。
17:51私は死ぬために、つまり、奪ってられるわけですね、軍人という兵士というのは。
17:58ところが、みんなのために死ぬんじゃなくて、みんなの方が先に死ぬ。
18:04沖縄戦が、当然、本土上陸になった時に減失されたろうと思いますね。
18:11県民の方が先進。
18:13何だろうと思いましたですね。こんな状態まで持ってきて。
18:17しかも、戦車ですからね。人間がリアリズムならざるを得ないんですよ。
18:22適当にやれば、向こうの弾が貫くけど、こっち側の弾が、
18:27人間となったのは、他ども投げつけたように、向こうに当たっても、傷つ一つを負わさないということも分かりますし、
18:34そういうところから、世界を、あるいは敵を、自分を見ることができるでしょう。
18:40こういうようにまで、国をダメにしていったのは、私は文国主義で言っているんじゃないです。
18:47こういうところに、国家を追い込んで、めちゃくちゃにして、自ら自分の国を袋裂きにして、潰していくというのは、一体何だろうと。
18:57そんなつまらない民族だったんだろうと。
19:04上の人は、この程度の人間しかいなかったんだろうと。
19:09昔は違ったろうというのは、明治の人は違ったろうと。
19:13あるいは、江戸時代の人は違ったろうと。
19:15少なくとも明治の人は違ったろうと。
19:18思うことが、過去への関心になって、そこが出発点になってしまったんですけども、
19:26明治というのは、明治時代じゃなくて、そして風俗や政治を語るんじゃなくて、
19:32明治国家という建物というか、個体というか、それをお話ししてですね。
19:43小説を22歳の自分への手紙と考えていた芝は、遠い時代から書け始めた。
19:49それは、フクロウの城などの電気小説の時代として知られる。
19:55ようやく龍馬が行くによって、緻密な取材に基づく戦国幕末の作品群となる。
20:02動乱記を結出した人物がどう生きたのかを探る中で、
20:07芝の視線は、巡視をきっかけに明治を作った群像へと向かい、
20:12少しずつ、22歳の青年、福田定一が生きた時代に近づいていく。
20:19明治の国家というのを非常にですね、芝さんは愛されていて、そこまでは良かったということをよく書いておられますよね。
20:32その先にある近世、江戸時代、非常に武士道にしてもプロテスタントに通じる非常に禁欲的なストイックな面を持っていた。
20:44これはまあ偶然の一致なんですけども、そういうストイックな面と、武士道のストイックな面と、それから江戸の頃から中期の頃から発達してきた、
20:58この昇進経済の発達に伴う合理主義、リアリズム、そういうものがですね、明治国家を支えていたということが、
21:08芝さんはよく言っておりますけどね。
21:15しかしその明治の合理主義、リアリズムというようなものがね、ある時期から歪んでいくわけですよ。
21:23特に日本の近代の国家の形成、それからいわゆるこの脱話、ニューヨー的な発想というもので、
21:36アジアに対しては、いわゆる侵略的な側面を持ちながら、軍事国家として体制していく。
21:48その過程で今まであったこの軍のですね、あり方にしても、極めて官僚的な形になってくる。
21:58国家自体が官僚化していくと同時にですね、軍のあり方も次第にこの官僚的な形になっていって、
22:08本当の今まであった様々な問題の新しい展開というようなものが、
22:18だんだんと私立ぼみになってくるというか、切れていくという問題がありますね。
22:26だから明治の国家というものに対する柴さんの考えというのは、せっかくあったその問題がね、
22:35ある時期から、日露戦争を一つの契機にするけれども、それによって歪んでしまう。
22:41そのあり方が、ずっとその後の日本の近代のあり方、現代へ続くあり方というものにつながってくるわけなんで、
22:55その問題をどこでね、どうするかというね、極めて批判的な視点というのが、ずっとあるわけですね。
23:05柴良太郎の明治期を描いた代表作である坂の上の雲。
23:18柴は40代のほとんどをこの作品に費やした。
23:22明治維新から日露戦争まで、戦略の天才と言われた秋山兄弟を主人公にして、国名に描いた。
23:30生まれたばかりの小国日本が、超大国ロシアになぜ勝ったのか。
23:39柴はそれを、ロシアとの力の差を冷静に分析して戦略を立てる、秋山兄弟の合理的精神に見た。
23:48私、坂の上の雲という小説を書きました。これは自分の義務だと思って書いたんです。
23:58昭和40年代に10年ほどかけて調べて書いたんですけれども、
24:05昭和20年という時に青年でありました。
24:11そしてその敗戦を迎えた時に、その敗戦そのものよりも、なぜこういうつまらない国なのか。
24:19つまり、国を運営している人々が、なぜこんだけお粗末なのかということを考えたわけでありますが、
24:28要するに、世界というものがわからない。
24:35そして、人々というものがわからない。
24:43そういう頭ですと、戦争の言葉で言いますと、戦術というのは局地的なものである。
24:52そして、小部隊のものであります。
24:55はわかっても、戦略がわからない。
24:58あるいは、戦略がわからない。
25:00そういう民族なんじゃないか。
25:03つまり、戦略や戦略は大人の感覚であります。
25:13それは島国だからわからないのか、そういう社会なのか、そういう文化なのか、
25:18無極端に言うと、そういう能力しか持っていないのか、戦術レベル、
25:24つまり、これは古い話で、兵隊の位で言いますと、
25:28少佐くらいの程度までは、日本人は優秀であります。
25:32ところが、それより上にいくと、非常にグローバルにものを見なきゃいけない。
25:36そして、一つのアクションをやると、リアクションが返ってくるという。
25:41そのリアクションは、世界の規模で考えなきゃいけない。
25:44世界の規模、つまり外交感覚だけでなくて、経済とか、人の心とか、いろいろから総合しなきゃいけない。
25:54たまたま、つまり、将軍のことをジェネラルと言いますが、総合者の意味であります。
26:01総合地の総合者という意味であります。
26:05総合地の総合者という人は、階級としてはいたけれども、実際にはいなかったんじゃないかと。
26:12ですから、日露戦争においてそれを見ようと。
26:16それは、戦後の私自身の日本への失望、楽談、日本の近代への粗末さへの失望と重なるものでありますが、
26:36戦略というだけをテーマにして、小説ができるでしょうか。
26:47やってみたわけであります。
26:48坂の上の雲はですから、戦闘場面をほとんど書かなかったわけであります。
26:53戦闘場面というのは戦術的な場面でありますから、戦略的なレベルで小説を書いてみたわけであります。
27:02その時に思いましたのは、非常に明治のその時期までの、つまりいわゆる偉い人もみんな正直でした。
27:12日本はこれだけしか米粒がないんだと、日本の米別にはお米はこれだけしかないんだと、お金はこれだけしかないんだということを、わりわゆる正直でした。
27:27そして、ロシアは地球を覆うほどの大国であります。
27:33ですから、とても勝てるものじゃないんだと、それをなんとか、こういう具合にすればなんとかなるだろうと。
27:43最後はアメリカに朝廷を頼ればいいだろうと、つまり痛み分けというところまで持っていけばいいだろうと。
27:52こういう感覚で始めたわけだ。
27:56日露戦争の勝利が、日本をおそまきの帝国主義という重病患者にさせた。
28:03勝った後、日本がいかにバカバカしい自国感を持つようになったかは、すでに知られているところである。
28:12政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じ切っていたし、
28:21自国や国際環境についての現実認識を失っていた。
28:25日露戦争の勝利は、ある意味では日本人を子供に戻した。
28:33その勝利の感情書きが、太平洋戦争の大敗北として回ってきたのは、歴史の持つ極めて単純な意味での因果律と言っていい。
28:43明治38年、日本は日露戦争に勝利を収めた。
28:50それは、近代国家を歩み始めた日本にとって奇跡的な出来事だった。
28:55しかし、実情は、死傷者はロシアを上回り損害も膨大で、その勝利すらもアメリカの仲裁によりもたらされたものであった。
29:06その事実は、勝った勝ったの大きな掛け声の中で、人々の中からかき消されていった。
29:13日露戦争の後の勝った勝ったと言っていましたが、実際の実情を国民に伝えていなかった。
29:25日比谷事件の焼き討ち事件とか、そういう事が起こるわけで、もっとポーツマス条約を破棄して、もっと戦えというような事で知らされていなかったんですね、実情を。
29:38その鉄をですね、太平洋戦争でまた踏みますね。
29:43情報を管理するというね、知らないままに突進しなければいけないというようなあり方。
29:52これの問題の原点はね、もう既に日露戦争当時からあったということを、
30:01夢塾くんも語ってるんじゃないですか。
30:03そうですね。
30:04坂の上の雲の取材ノート。
30:09柴は当時の関係者に会い、資料を当たって、国名に当時の戦略をたどっていった。
30:16しかしその中で分かったことは、戦術や戦略の意図や評価など、様々な事実が消え去ろうとしていたことであった。
30:27日本人は、事実を事実として残すという霊言な感覚に欠けているのだろうか。
30:36時代事実の価値観が、事実に対する万能の判定者になり、都合の悪い事実を消す。
30:44日露戦争後の陸軍戦士もそうであった。
30:48太平洋戦争後も、逆ながら同じことが行われ、今も行われている。
30:56事実は、文献の面でも物の面でも、すべて存在したというものは残すべきである。
31:03嫌な事実も、それが事実であるがために残しておくという、ヨーロッパの国々で見られる習慣に対し、我々は多少の敬意を払っても良さそうに思える。
31:18昭和14年に起きた、ノモーハン事変。それは、芝にとって重要な意味を持っている。
31:26日露戦争の勝利から、日本人の事実への認識の甘さが始まったと考えた芝は、自分が満州で聞いた、ノモーハンの悲惨な敗北と、宣伝された勝利とのギャップに目を向ける。
31:41ノモーハン事変は、中国大陸で膨張し続ける軍部が起こした一連の戦争であった。
31:49当時は、圧倒的勝利という報道で国民に宣伝されたが、実際は、勝者70%という大敗北であり、その事実を日本軍は隠蔽し続けたのであった。
32:04ノモーハン事件というのは、芝さんご自身がですね、戦車隊の一員として満州に連れて行かれたと。
32:11その時に、第一戦車連隊という、戦車の連隊そのものがですね、ノモーハン事件に参画したと。
32:19それで生き残りの人たちが随分おられたんですね。そういうようなことを聞いて、ご自分の体験を含めてですね、ノモーハン事件を書こうとして、たくさんの資料を集めになってたんですけども、それが実際に書けなかったと。
32:34歴史の中に、本当に惚れ込める人間像というものを見出す。これが芝さんの小説の、そもそも出発点になるわけですから、それを人間を、なかなかノモーハン戦記では見出すことができなかったのかもしれませんけどね。
32:57私に書こうとすると、心臓の血管が破裂しちゃうというようなことを具体的におっしゃいましたけども、結局、先生のおっしゃってたことを考えますと、体験的には、あの方は資料を集める一方で、例えばその当時の参謀ですね、現況になった、そういう参謀をですね、訪ねてるんですね。
33:27芝家に残されたノモーハンの取材ノート。始まりは、昭和40年代初め頃までに遡る。
33:38それは、坂の上の雲を連載し始めた時期であり、すでに並行して取材していたことがわかる。
33:46芝は、当時の関係者に一人一人当たって証言を集め、ノモーハンの全貌を解き明かそうとしていた。
33:59最近までの30年間、芝の執念ともいえるノモーハンへの取材は終わらなかった。
34:14この間亡くなった方で、最後は陸軍中将になっていた人が、ノモーハンの時の作戦課長でした。
34:23東京の作戦課長でした。
34:25その人に、お料理屋に誘いまして、今から10年ほど前ですが、いろいろお話を伺いました。
34:38午後6時から11時頃まで、よくおしゃべりになる方でしたが、何事もできませんでした。
34:44ちょうどつるつると、脂がびの上に水をかけたように弾くばかりで、何も聞き手の心にも入ってこない言語が溢れているだけで、
34:59そしてノモーハンのことを巧みに外していらっしゃって、そのノモーハンのことをまた聞きますと、何だか官僚的な答弁が出るだけで、それだけが非常に面白かったです。
35:13要するに官僚だということであります。
35:15ああ、こういう人がやったのかということであります。
35:20柴家の書庫には、ついに柴良太郎の書いたノモーハン戦記が並ぶことはなかった。
35:30膨大な取材を重ねながら、なぜ柴は自らの体験に最も近いノモーハン戦記を書くことができなかったのか。
35:39柴家の記事
35:41だからノモーハンはずっと、皆さんからいろいろな資料をいただいたり、各社の出版社の方とかにいただいたりして、ずいぶん考えていましたけれども、
35:56私はもう、なんかこう調べるほど気分も重苦しくなるし、重苦しくなるだけだったらいいけども、虚しくなっていったんじゃないかなと思うんですよね。
36:12それで、最初は書くって言ってて、お約束もしてたんですけれども、だんだんもう、いつ書くか分からないということになって、
36:22その次に、今でもはっきり覚えてますけれども、ある編集者の方と、空港に向かう途中に、その編集者の方が、
36:37あの、ノモーハンよろしくお願いしますっておっしゃったら、ノモーハン書いたら、俺、死んじゃうよって言ったんですよね。
36:47で、その方も、ハッとしても黙られました。
36:52私もハッとして黙りましたけれども、だからもう、その時にあの、ノモーハンも書かないんだなと思って、
36:59でも、もう死角と言っても、私は嫌だなと思ってたんですよね。
37:06昭和から平成になって、小説を絶っていた柴良太郎が、あと一冊書くべき小説があるとすれば、
37:14それは、ノモーハン戦記以外にないと、新聞や雑誌の編集者は考えていた。
37:23お書きになった方がいいんではないかという感じでね、申し上げたことはあるんですけどね。
37:35ノモーハンね。
37:37やっぱりその陸軍の話とか、戦争の話していると、割合そこに行き着く部分があるんでね。
37:48ただし、だけどそれは、どういう、どういうあれか知りませんけど、ノモーハン書いたら死んじゃう。
37:56死んじゃう。
37:57だから、でも、ずいぶんやっぱり新聞社なんかから、もう、言われてたんじゃないですかね。
38:03死んじゃう。
38:05死んじゃう。
38:07なんでしょ、死んじゃう。
38:09でも、やっぱり、今だって、日本はどうなるんだろうって思ったら、本当に先生、心配で心配で。
38:28だから、最近ね、亡くなる前までの、その、書いている、いらっしゃることとか、対談なさっている、あれもそうだけども。
38:39だから、それと同じように、やっぱりあんまり、その、この当時のね、馬鹿げた戦争とか、そういうのを、やーっと書いていると、もう、それを本当に、なんでとか、どうしたらいいんだろうとか、そう思いがうっていくから、
38:57それを、死んじゃうという風なね、表現なさったのかな、とも思いますけどね。
39:08僧侶であり、作家である寺内大吉さん。
39:11柴良太郎に、最初に小説を書くことを勧め、共に同人誌を始めた。
39:18以来、柴文学を傍らで見続けていた寺内さんは、柴良太郎の原点は、22歳の福田定一だと言い切る。
39:28彼は、外国の歴史は、まあ、最近の街道行くあたりでは、触れてはいるが、ほとんど日本の歴史ですからね。
39:37ということは、もう、彼のターゲット、到達点は、結局そこは、到達しない目標にしていたでしょうが、
39:44やはり、自分が青春を燃焼させた、この現代史でしょうね。
39:50この、戦中から戦後。
39:53だけど、これは書きたくなかったんじゃないですかね、彼は。
39:57常にそこをですね、墓標にしてですね。
40:00ね、お前の箱はここにあると。
40:03これは墓標だ、墓標だ。
40:05しかし、お前んとこのおじいさんはこうだった。
40:07お前んとこのご先祖はこうだった。
40:09そこをどんどんどんどん語りかけることによって、その墓標はですね、
40:13その痛ましさとか、ね、そういうものはあまり感じられなくなって、
40:19一つの記念碑としてですね、この、存在できる。
40:24彼としてはやっぱり、あの太平洋戦争戦後は、書きたくなかったし、書けなかったんじゃないかな。
40:33それだけに僕は、しばりお太郎のなんていうのかな、
40:36青春のこの傷跡っていうのはね、深かったと思いますね。
40:41青年、福田定一が受けた心の傷。
40:52その傷を癒すかのように、この国の形を小説としてしばりお太郎は、
40:5922歳の自分に書き送り続けた。
41:05死からは、昭和平成と現代に生きる我々は、何に傷つき、どんな真心を持って共感できるのか。
41:20混乱するこの国の育成を深く憂いて、しばりお太郎は小説をやめ、
41:31再現し続けながら、後を我々に託して、平成8年2月12日、行った。
41:42生きる自分の文藩のことを調べました。
41:52資料も集めました。人に会いました。
41:55会いましたけれども、一行も書いたことないんです。
42:03それを書こうと思ってながら、いまだに書いたことなくて、ついに書かずに終わるのではないかと。
42:16そういう感じをします。
42:21昭和というものを書く気分を起こらず、おそらく書いたら、一年をもたずして、
42:29私は発狂状態になって、内臓まで狂って死ぬんじゃないかと。
42:36昭和というのは、実に精神衛生に悪い、書いておって精神衛生に悪い、実にそういうものを持っています。
42:46それを、どなたか若い人が昭和を解剖してくれたらいいのであって、そのきっかけとしてしゃべっているようなものですね。
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