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トランスクリプション
00:01今日はのんびりした話をしたいと思います。
00:09前回で日本の明治時代というのは、
00:16いろいろな欠点を持ちつつも、
00:22やはり素晴らしかったということを申し上げたと思いますが、
00:30明治時代を作り上げたのは江戸時代であります。
00:37江戸時代における多様性が、
00:42明治という一本の川になって現れたと考えていいと思います。
00:48江戸時代というのは非常に多様な時代で、
00:52ここで言っておかなければいけませんが、
00:59社会で大きな文化が出来上がるのは、
01:03多様でなければ良いものが出来ないのであります。
01:10一つの国が単純な文化で我々支配されているという状態では、
01:22その国やその社会は衰弱するだろうと思います。
01:28今は少し単純かなと、
01:33こんにちは。
01:35少し単純かなと思うんですが、
01:38江戸時代のことを思いますと、
01:42気が大きくなってくるんです。
01:43鎖国を捨てて、世界からポツンと孤立しておるくせに、
01:50国内では多様でした。
01:52ご存知のように370班というような班が分かれておりまして、
01:59それぞれ個性がありました。
02:02例えば、同じ九州でも、
02:09比善の佐賀、
02:12鍋島という殿様の佐賀というのは、
02:15三十何万石の大きな班ですが、
02:18ここは実に勉強ばかりする班でありまして、
02:23今のちょうど小学校に入る年齢から、
02:27大学を出て大学院ぐらいの年齢まで、
02:34藩士、つまり五日中の侍たちは勉強させられたわけです。
02:40その間、初等コースから中等コースにかけて、
02:45それぞれ試験がありまして、
02:47その試験に不合格だと、
02:50親子につけなかった。
02:52つまり五日中というのは、
02:56藩士のことですが、
02:58家に代々のおろくというのがあるんですけれども、
03:02それはもうインフレで、
03:04江戸が始まって以来のインフレで、
03:07食べていけないんです。
03:09ですから、お役目について初めて、
03:12お役料がいただけて食べていけるんですけれども、
03:15そのお役目につけなければ、
03:18植えてしまう。
03:21ひどい場合には、大事な家録まで削られる。
03:28成績次第によっては削られるというような。
03:32異様に、こういう藩は鍋島だけですけれどもね。
03:36ところが、その三百祖皇の中で最大の有藩とされた薩摩藩は、
03:45これ70万石ほどあるわけではない。
03:49でっかい藩であります。
03:50それに、琉球を中継点として貿易をしたり、
04:00あるいは、これは西南諸島を搾取しまして、黒砂糖を作って、
04:07それで日本の商品経済の中で大きな位置を占めたり、
04:12なかなかの藩でありましたけれども、
04:14基本的な原理は、侍は質素であれと、
04:19そして侍は戦国の夫婦を持てということが、
04:22基本的な家中教育の原理でありましたから、
04:26勉強するなと、あまり勉強が必要ない。
04:30つまり、薩摩藩というものは、
04:32今で言えば中学に出たくらいの教養だけでよろしいというのが、
04:43薩摩藩の雰囲気でした。
04:45だから、幕末に出た西郷隆盛というのは、
04:48これは日本史の上では不性質の人ですが、
04:52この人も、その初期においてはその程度の教養でした。
04:58ただ、その中期において島流しになっておりまして、
05:04その間にずいぶん本を読んだ人であって、
05:07そこで、いわば学校に行ったようなものであります。
05:13ですから、薩摩藩の人というものは、
05:16教養を誇るとかいうことはあまりなくて、
05:20同じ、つまり九州でも、
05:22自然の内部島とずいぶん違うものであります。
05:26それから、たとえば、
05:32幕府はなるべく朱子学であれということになっておりました。
05:38ですから、朱子学を漢学と、
05:40お上の学問としておりますけれども、
05:45しかし、越後の長岡という十万石を超える程度、
05:50十万石なかったかな、
05:53なかったですね。
05:54藩なぞは、
05:59不代、
06:01兎様ではなくて不代の大名なんですけれども、
06:04陽明学が藩の学問でした。
06:08朱子学も陽明学も似たようなものであります。
06:12似たようなものでありますが、
06:15陽明学のほうが、
06:18やや、
06:20やや、
06:22ちょっとこの、
06:24変な言い方で言いますとですね、
06:27アラブが勝っているというか、
06:30ちょっとイスラムが勝っているというか、
06:33ちょっと一神教の雰囲気があるというか、
06:35ちょっとその点が、つまり、
06:39匂いとして違う程度であります。
06:42それから、
06:44南部藩というのは大きな知的な、
06:51今は単に岩手県であります。
06:53明治後は単に岩手県になってしまってですね、
06:55気の毒なことであります。
06:57例えば、鹿児島県というのは、
06:59偉大なる薩摩藩が、
07:01今は単なる鹿児島県。
07:05そして、偉大なる南部藩が、
07:08単なる岩手県でありますが、
07:11南部藩というところは、
07:13摂中学という、
07:16摂中のものの真ん中を取るという、
07:20あの摂中であります。
07:22という学問が大体中心でありまして、
07:27それは要するに、
07:29種子学は関連論哲学であります。
07:32しかし、日本江戸紀に、
07:36新たに起こした、
07:37江戸初期が過ぎた頃に出た人で、
07:39おぎゅうさらい。
07:41この人は、
07:43中国にも朝鮮にもいなかった、
07:45受学者でした。
07:46ちょうど今の人文科学に似たような、
07:50考え方の学問を起こしまして、
07:54当時はそれを古い学問とか、
07:57ネーミングは変ですけどね、
07:58そんな新しい学問を古学というのが変なんですけど、
08:03古文字学とかですね、
08:05というような言い方で呼んでいましたけれども、
08:07ものを、
08:13ちょっと言い過ぎかもしれませんが、
08:16合理的に論争していくと、
08:20ものを平たく見るというような、
08:24基本的な姿勢がありまして、
08:27南部藩は、
08:29これを2つを、
08:31折衷させようというので、
08:32この南部藩の領域から、
08:38カノン・コウキチュアル・秋田藩ですね、
08:42明治になって、
08:46内藤コナンという、
08:50我々、明治元年から古日に至るまで、
08:54大歴史家を一人挙げようと、
08:56トインビーに匹敵するような、
09:00大歴史家を一人挙げようといえば、
09:03内藤コナン、
09:05湖の南と書きますが、
09:07これは明治後、
09:09秋田藩に入ってしまいましたが、
09:12秋田県に入ってしまいましたが、
09:14旧幕時代は、
09:17南部藩の国境に近いところで、
09:19南部藩領だった村の人であります。
09:21雪中派の思想の中で生まれて、
09:27非常に物事を平たく見る。
09:30ただ、内藤コナン自身は、
09:32雪中学というものを、
09:34自らの学問ですから、
09:36馬鹿にしておりまして、
09:38非常に自分を揶揄するように、
09:41あんなことやってたってしょうがないんだと、
09:43ただ単に解釈するだけじゃしょうがないんだ。
09:46実際、内藤コナンという人は、
09:47歴史を、
09:51この人は中国史とその周辺史ですが、
09:55歴史を文献にあたって、
09:57実に綿密に交渉すると同時に、
10:00それにくっつかずに、
10:02文明とは何ぞやということを考えた人でありまして、
10:05同時に、日本史についても明るくて、
10:07例えば、江戸中期の人で、
10:13富永中期という、
10:15これは大変な、天才的な学者、
10:20商人の上がりですけれども、
10:22商人の上がりじゃなくて、
10:26商人の子であります。
10:2730歳で亡くなりましたから、
10:30大阪の道明寺屋という、
10:32お醤油屋さんの息子であります。
10:34この人は、
10:36仏教のお経、
10:37特に大乗仏教のお経、
10:40阿弥陀教とか、
10:42それらはお釈迦さんと関係ないんだと、
10:44それはシルクロードのどこかでできたんだと、
10:47いうことを綿密に交渉して、
10:50坊さんたちを振り上がらされた人で、
10:56いまだに富永中期の交渉を超える説はないんですが、
11:02富永中期をやっつける説はないんですけれども、
11:05それを発見したのは、
11:11内藤コナン、
11:12明治30年代、
11:13いや、明治20年代で発見しています。
11:16うずもれた江戸時代の知識人としての、
11:22無名知識人を我々の前に持ってきてくれたのは、
11:26内藤コナンであります。
11:28その他、たくさんの人を発見しています。
11:30こういう能力というものが、
11:32内藤コナンの固有の能力なのか、
11:35文明体験なのか、つまり、
11:38南部藩の飛び地に近い秋田県に、
11:42今の現在の秋田県に差し掛かったところに、
11:46ケマナイという村があるんですが、
11:51そこの、つまり小さな侍の家に生まれて、
11:55隣村は秋田藩陵であります。
11:59学問の仕方も違うんであります。
12:00そこで文明体験があったんじゃないかと。
12:04それはやはり国際体験といってもいいような、
12:07我々はバルカン半島に小さな国、
12:10あるいは小さな、たくさんの民族が詰め込まれたようになっている。
12:13あそこから面白い天才が出てくるように、
12:15そういうような状況があったんじゃないかと。
12:21それからまた、
12:22五百姓の間でもですね、
12:35例えば、東京都の郊外に多摩地方があります。
12:44昔は三玉といったところで、
12:47これは将軍の直轄領でありました。
12:53天領という、天領の百姓たち。
12:56直轄領でありました。
12:58そこでは、どういうわけながら、
13:00剣術ばかり流行るのであります。
13:02村々が、お百姓が剣術したってしょうがないんですけども、
13:05剣術の試合があってですね、
13:07そして、
13:08勝つと珍珠様に奉納額が上がるのであります。
13:17そこから新選組が出ているわけですね。
13:21それで、私の祖父といっても、
13:26私の父親はその人の五十歳の時の子ですから、
13:30私から見れば、その祖父はもう随分遠い時代の人で、
13:34見たことはないんですけども、
13:35明治維新の時には、やや青年だった人であります。
13:41その人は、私と違って、大変数学のできた人でありまして、
13:47この人の村は、姫路郊外の広島の広という、広一寺の広というところでありますが、
13:57広野天満宮に、幕末の最後の頃に、その辺の試合がありました。
14:07それは、堅実の試合ではないんです。
14:10参述の試合なんです。
14:12当時は、関河和という、偉大な和山の大化が、その以前に、姫路の付近に住んでおりましたから。
14:21関河和流の和山というのは、その付近、万州一帯、
14:27万州というのは、ちょうど神戸の西の端ぐらいから、姫路ぐらいまでを、
14:32海岸沿いの部屋を、万州部屋というわけなんですが、
14:37万州一帯の農民は、江戸中期頃から和山を、いわば、
14:50道楽のようにして、みんな学んだり、戦い合ったり、
14:55問題を和山の先生が出しまして、
14:57確か、三条大橋の、この橋が湾曲しておりますが、
15:03それの縁の半径を出せというのが、問題でありまして、
15:11ムラムラの和山の達者の若者が競い合いまして、
15:17私の祖父がたまたま勝って、
15:20それで、堅実と同じように、和山の額ですから、
15:23山岳ですから、山岳というんですが、が、広野天満宮に上がったということを、
15:29父親が、祖父から聞いた通りのことを、私に言っておりましたが、
15:35つまり、そういう土地からは、神戦国は出ませんですね。
15:39ですけど、大阪のヒンターランドですから、
15:42江戸家を通じての商品経済の中心地である大阪に、
15:45働きに行ったり、大阪で一旗あげようとしたり、
15:51あるいは、でっちに行ったり、バントサーナに行ったりする土地が万州であります。
15:57ですから、その近所に、高砂という、高砂屋という、
16:03結婚式の歌いの高砂屋であります。大きな港でありまして。
16:09そこでも和山の盛んなところであります。
16:13そこから、つまり、
16:16暗く松江門という、暗くは工業学校の校に落語するのが、
16:25松江門、松杉の松ですね。
16:29大発明家が出ましたですね。
16:32この人は、江戸時代にキャンバスを作って、
16:36江戸時代の穂掛け船の方を一遍刺した人でありますけど、
16:41その他、布団の作り方とかですね、
16:44それから、いろんな面白い発明をした人であります。
16:49それから、さっき富永忠季の話をしましたが、
16:54富永忠季と並んで、江戸時代の、
16:58つまり、ヨーロッパ風の不思議な思想家として、
17:02山形番頭というのがおります。
17:05一生、番頭さんだったものですから、番頭と。
17:09字は違うんですけれども、
17:10自ら、つまり、ユーモラスに自分の棒をつけたような人でありますけれども、
17:17これは無心論の研究を、無心論を展開した人であります。
17:21これもナイト・コナンの発見であります。
17:27山形番頭を出したのも高砂でありまして、
17:31それは番集平和といっても、いろんな人がおったと思うんですけれども、
17:38特徴的に言って、そういう一特徴があって、
17:41さっきの江戸の郊外の三玉、そこでも、そういう剣術試合とか、
17:51いかにも侍のお膝元といいますか、江戸という大きな武家の根拠地のお膝元らしい雰囲気があったと。
18:05近藤勇は余談ですけれども、京都で少しは近藤勇大に成功しまして、
18:13もっと大使を増やしたいというときに、
18:16国元に手紙を出して、いい青年がいれば送ってほしいと。
18:24平和関東に限り折り候、限り折りだったかな、限り申し候、限り申し候という手紙の一節がありますけれども、
18:36いかにも平和晩集に限り申し候ではないわけであります。
18:41ですから、バラエティという言葉はいい言葉で、これは日本語にはできませんねと言ったのは、
18:50確かにイブセマスイさんがどこかにお書きになっていたか、
18:54誰かがイブセさんから聞いたことを書いておられたか忘れましたが、
18:59確かにバラエティという言葉はいい言葉であります。
19:02バラエティがなければ、江戸時代というものの繁盛というものはないわけである。
19:09それが明治を作り上げるわけであります。
19:14明治の精神というものは何かというのは非常に難しいです。
19:24明治というのは、例外はいくつかありますが、
19:32汚職をしなかった際、例えば八幡製鉄所というのを起こさなければいけない。
19:38あるいは各大学、その以下の学校を整備しなければいけない。
19:43どうしても勘が指導せざるを得なかったわけですね。
19:46その八幡製鉄所というものは大きな資本であります。
19:51それをどこかの国の銀行に預けてしまえば、利息だけで随分金儲けができたり、
20:02少しそれをつまみ食いしたりしても大きな金だと思うんですけど、
20:09それを誰もその資本に対して汚職することなくしたものですから、
20:20つまり八幡製鉄業が日本で起こるとか、
20:24それから学校の先生が裏口に学の世話をするとか、そんなことはないです。
20:29明治の寄付というものは、やはり江戸時代270年間、一種の学校、
20:40文明の学校と規定して、そこから明治になってくるものですから、
20:48そこで出来上がった精神、これはやがて消えていくか衰弱していくわけですけれども、
20:56そのまま明治陣を作っていたわけであります。
20:59私はいつも面白いと思うんですけども、
21:05秋月定次郎という人が好きで、私はこの人がですね、
21:12そのことを思うと、心が涙ぐむような思いになるんですけれども、
21:21幕末の藍津藩市であります。
21:24藍津藩の観学者で、非常によくできた人であったんですが、
21:29藍津藩がご存知のように、京都に中途にして、
21:33京都の黒谷の、今でもちょっとお城みたいなお寺がありますね。
21:38あそこを陣営にして、京都四五尺というものを松平方守がやったものですから、
21:48藍津の半分は京都に中途にして、それの別同隊が新選組になったわけですね。
21:57だから藍津藩は新選組がやったリアクション、アクションのリアクションをですね、
22:04藍津攻めで、藍津藩が明治維新のいわば地祭りの対象にされてしまうというのは、そのせいだったんですけれども、
22:14その京都における藍津藩の終戦型、つまり藍津藩の外交官であることを終戦型といった、
22:24終戦は不動産の終戦という、あの終戦の終戦であります。
22:29ポリティカルな意味のときに終戦という言葉、まだ政治という言葉はポピュラーでなかったわけですから、
22:36ポリティカルなときに終戦という言葉を使うんですが、終戦型だったわけです。
22:42一橋家の終戦型は渋沢栄一さんだったということは、
22:48みなさん、これも百姓上がりのお侍であります。
22:51それから長州藩の終戦型が勝良小五郎で後の木戸行員であり、たこたこどりの通りであります。
23:00秋月定次郎というのは実にチャーミングな人であって、
23:05強要のある人でもあったんですが、
23:14どういう人だったか、監視のいくつかを私は記憶しているだけでですね、
23:20人柄もよく知らなかったんですが、あるときにですね、
23:25古い第五高等学校の同窓会雑誌を人からもらったことがあるんです。
23:32古い時代です、明治時代です。明治時代のことを書いてある、思い出を書いてあって、
23:37秋月先生の思い出というのが下りがありましてですね、
23:42秋月定次郎は五郎の漢文の先生を知っていたのか、
23:47ちょうど漱石と同じような前後をしているかもしくは同時期であります。
23:52五郎の先生をしておって、下調べをしてこない人に雷を落としたことがあるらしいんですね。
23:59その時のセリフは、ただ一言だそうですな。
24:04そっかはという、お侍がよく言いますね、あなたはという。
24:10そっかは何藩かと。
24:12何藩かというのは、明治30年代になってですね、何藩かもないんですけれども、
24:18何藩の名誉を背負ってここに来ておるのかという意味であります。
24:23そしてまた何藩というような、藩によってパラエティがあります。
24:29さっき江戸期の多様性の中で、江戸中期以後、いよいよその多様性を増してきましてですね。
24:38例えば、小さな5万億とか10万億以内の藩というのは、これはもう大半に対していろいろうっくつしたものがありますが、
24:53学問をするしかしょうがないというので、小さな藩ほど学問をしたものであります。
25:00例えば、藩岳が起こってまいりますと、藩岳は宇和島に行かなきゃいけないと。
25:07はるかに宇和島へ行って勉強するとか。
25:10それから越前、福井県の越前大野という雪の深いところがありますですね。
25:17小さな藩がありました。
25:19そこでも藩岳は盛んでですね。
25:22特にその藩岳でも、体操、体操というのはやっぱり藩岳の一つに入ってたんですかね。
25:31越前、体操を学ぶのは越前大野へ行かなきゃいけない。
25:36また大野へ行くわけであります。
25:38ですからその大きな加賀百万石というのは、あまり難学というようなもので、光ったものを出してないんですけれども、
25:53例えば山陰地方によく観光に行って、小さな、江戸時代の町で小さな町だけども、江戸駅の城下町だという感じで、
26:06ツアノというところはよく行きますですね。
26:08武器屋敷があって、お堀があって、鯉が泳いでまして。
26:15私はツアノ行って、やっぱり山口に行っても鯉が泳いでますね、町の中を。
26:23山口でもツアノでも、この鯉を誰か取らないんですかって聞いたら、
26:28土地の人が鯉を取るんですかって、そんなこと考えたこともない雰囲気で、びっくりしておられましたけど、
26:36我々外部から来たものの荒々しい心を持っていて、誰かこの鯉を取らないのかしら。
26:42町全体が一つの公の精神があって、鯉は公の門である。
26:53そのツアノの小さな藩は、高台の向こう、国境の向こうは長州藩であります。
27:00もう巨大なる長州藩。
27:02長州が何事かするときには、ツアノはちょうど谷底にある盆地ですから、
27:08上からなだれ落ちてくる長州藩、長州兵によって潰されてしまう。
27:15そういう頭上の敵というものを常に感じざるを得なかった藩でありまして、
27:21ここの人はよく学問をして、蘭岳の上坂になると蘭岳をやりました。
27:28モリオガイのお父さんも確か乱法医だったと思うんですが、その隣にやはり西という家があって、同じような格式の家であります。
27:44西天音という人を除いて明治の文明開化は語られない。
27:50あるいは、我々が今ここで喋っている日本語の多くの言葉、つまりヨーロッパからの大学語を、
27:59学校とかですね、哲学とか、それから大学とか、それから鉄道とか、その他、西天音が今言ったような例のものを作ったという意味ではありませんが、
28:13非常に多くの日本語を作った人であります。西天音、そしてモリオガイ。
28:20今でもその屋敷が2つ残っていますけれども、いかにも、つまり西天音などは、つわぬから出る人であって、
28:32大きな、例えば仙台藩というとこからまた別のタイプの人が出るというように出来上がっておりまして、明治というのはあってですね。
28:47多様性の中にあるだけでなくて、明治はだいたい7割以上が、70%、80%は農村に住んでおりました。
29:10そして都市に住んでおるものはわずかで、さらには高い教育を受ける人は一層わずかでした。
29:19一層わずかですけれども、高い教育を受けた人は、みんな、こう、責任感といいますか、国家と一つになっている雰囲気がありました。
29:32例えば、さっき話をしましたついでに、内藤湖南の秋田県の毛間内という村の話をしました。
29:42その村からちょっと向こうへ行くとも秋田藩陵でありまして、大館という大きな函館の建て。
29:50そこの小さなお侍で、加納幸吉という人が、江戸期までは確か5、6歳で明治になって、そして高い教育を受けました。
30:04この人は、30何歳で第一高等学校の先生、校長先生になるんですけれども、その後、明治30年代の終わり頃に出来上がる京都大学の最初の文学部長として、つまり文学部建設をやった人でありますが、
30:26その後、彼は辞めてしまいまして、全て辞めて、貧窮の中で生涯研究したことは一つ、日本人はオリジナリティがあるのか、日本人は創造的な能力があるのか、
30:48つまり明治時代は模倣の時代でありましたから、大変な模倣の時代でありましたから、
30:56加納幸吉のような第9の教養人、この人は安藤松駅を発見した人ですが、
31:06つまり、館にあった時からですね、給料のほとんどを古本購入に充てまして、
31:16そして辞めてから、もうそれの中に渦もれてですね、江戸時代の、まあ、そして有名な人はみんな調べてますけれども、
31:26無名の知識人、学者の書いたものが見つかれば、古本屋から出てくれば、大抵は筆記本であります、筆写本であります。
31:37それを読んで、どの程度だったか。
31:41彼は、何人かの、4、5人以上の独創的な思想家を、江戸時代から発見するわけであります。
31:51その中に有名な安藤松駅という、八戸の町の、これは江戸時代において、つまり封建体制の中にあって、
32:10ишiroachtaの根源思想と熟進。
32:15人間の社会でいろいろいろあるものがいっぱいあります。
32:18それは、大名とか、およそ者召文とか、知人、学者とかというもの。
32:21歴史に伝えても、繋げるものもあり、
32:25それが、お釈迦さんとか孔子とか毛子と言うもの。
32:28必要なものだということだと、みな百姓になればばいいの。
32:32そして自ら耕して自ら食べろということを今は禅宗がありますから何がもあるんですけれども
32:43その膨大なつまり彼の思想展開は最初カノン・コウキチは筆写本で読んで
32:51これはひょっとするとこの人は頭がおかしいんじゃないかと
32:56そのぐらい激しい思想なもんですから
32:58まず頭がおかしくないという証拠を全部読み通すことによって得るわけであります
33:05まずこの人は卑怯者ではないという基準であります
33:09江戸紀の人、名人の人がですね
33:12侍の風を受けてますから卑怯ということは一番いけなかった
33:16ガンド正義は卑怯でないとどっかの文章の中から感じたわけですね
33:22それから非常にバランス感覚がある
33:25そしてさらには愛国の熱情があると
33:29これはもう全部正常のチェックすべきポイントですね
33:40カノン・コウキチはそれを世に出すことによって
33:47自らが名前を売るということはないんですね
33:52カノン・コウキチという人はできるだけ自分は世から忘れられたいと
33:56だから著作は一点もないに等しいですね
34:01著作をしたりいろいろすることもつまりけばけばしいことだと
34:06できればもう生涯隠れてそのまま忘れられて死んでしまいたい
34:13かといってミヒリストではないわけであります
34:16そのようにして日本人のつまり本性といいますか
34:25果たして人の真似ばかりしているのかと
34:29そういう民族なのかどうかというのを江戸時代で検証し直したと
34:34いう点でこれはミヒリストとは言えませんですね
34:44そういう不思議な人が出るというのは
34:49カノン・コウキチは5歳でもうすでに一家を継いでおって
34:55オロックが何国かあったお侍でした
34:585歳のお侍でした明治維新の時は
35:01ですから秋田のこれは南部じゃありませんが
35:07秋田佐竹家の侍ということが
35:13コウキチの精神を支えていたと思うのであります
35:24まあなんというか
35:26夏目漱石とも親しかった人でありまして
35:29漱石が小説を書いても読まなかったそうでありません
35:35我輩は猫であるというのに
35:39カノン・コウキチがモデルになっていると
35:41当時から言われておりましたから
35:43カノン・コウキチは読んだんですけども
35:45すぐ忘れたそうであります
35:47まあ小説というのがつまらんもんだということは
35:50明治人、明治のいわば
35:54死体不敵な
35:56教養人の共通のものでありましたから
35:58漱石が
36:00小説なんか書かなくても
36:02あいつは立派な学者になると
36:04まあそういうように思っている人であったわけです
36:08その漱石もですね
36:14自らの小説を書くということを
36:17カノン・コウキチには小説なんてのは
36:19亡国の仕事だと
36:21やっぱり漱石は漱石なりにですね
36:23明治人として国家と一体感があったんですね
36:27漱石という人は奥の深い人ですから
36:31いきなり国家の問題とか
36:33いうような問題を出す人じゃありませんでした
36:36文章の上でも座談の上でも
36:39そういうものを出す人じゃなかったんですけども
36:43その言葉の中に
36:45コウキチに対して言ったと言われる言葉の中にもですね
36:49漱石の持っている明治人らしさがあると思うんであります
36:53もっと明治の面白さというより頼もしさはですね
36:59日露戦争という国家が滅びるかどうかというようなことをやっている最中に
37:05名詰め漱石は我輩は猫であるというのを
37:08つまり彼にとっての最初の小説を書いておったわけであります
37:14そういう明治の面白さというものは
37:18とても昭和時代だけを知っておる
37:21私どもの年齢のものには分かりにくいですね
37:25まあ
37:27私は明治というのは
37:29戦後一時期
37:31何もかも日本が悪いというようなことが
37:35よく言われておった時代に
37:39明治も結局
37:43序高愛氏の時代であり
37:45ノグミギ峠で象徴される時代だった
37:47確かにその通りであります
37:49その通りでありますけど
37:51それにしても私どもの頃に
37:55いった老人たち
37:57つまり明治を経てきた老人たちが
38:01あまりにも楽しそうに
38:03明治時代を話しているのはですね
38:05不思議だったわけです
38:07私は坂の上の雲という小説を書こうとした
38:13同期はもうちょっと自分で明治を知りたいということでした
38:17そしてその同期のうちのいくつかの一つの中に
38:21やはり皆さんご存知の中村草田尾の俳句がありました
38:29古雪や明治は遠くなりにけり
38:33草田尾は明治32年ぐらいの生まれでしたか
38:39松山の人であります
38:41大学生であることを30歳ぐらいまで続けた
38:49軟気な人でありまして
38:52青山付近を通っておって
38:55確か私は草田尾さんの文章で読んだ記憶があるんですが
39:01青山南小学校の生徒たちが
39:05昭和6年ぐらいにですね
39:07ランドセルを背負って
39:09だーっと肛門から出てくるのを見ながら
39:11この俳句が浮かんだと
39:13つまりそれ以上のことはよく分かりませんが
39:17つまり明治は遠くなりにけり
39:21というのは明治という日本があったと
39:23明治という日本も遠くなったなと
39:25昭和6年に
39:27これは激動の時代が始まろうとしている年であります
39:31今日は何て言いますか
39:39多様性というものをかつてあったと
39:43我々は単純な単一の時代に
39:47ひょっとしたらそういう文化の中に住んでいるんじゃないかと
39:50その怯えからですね
39:52かつては多様性の時代がありましたよと
39:54かといってこれ
39:56今はどうなるんでしょうかと
39:58いうことになります
40:00なりますが
40:02今はそのですね
40:04偏差値の時代だそうで
40:06縦割りでですね
40:08東京大学から京都大学になって
40:10一橋になってと
40:12お宅の坊ちゃんは青山ですかと
40:14いうような
40:15それは日本全国ごとの町からですね
40:20北海道の串野の町や村に至るまで
40:26お母さんやたちの話題になっておる
40:30そして子どもたちは同じ
40:32つず裏裏で高等学校を入りまして
40:34偏差値社会の中に入って
40:37そして少しでも偏差値のいい学校に行くことだけが
40:41青春の目的になっておって
40:43そしてお母さんたちの
40:45その日常の懸念頭に
40:47気がかりでもある
40:48そういう社会が
40:50何事かを生むだろうかと
40:53いうことはちょっと心細い
40:57あの我々が
40:59自分自身で自分の多様性を
41:03お前はそういう
41:05自己を作り上げておるのかとか
41:08お前はそういう面白い考え方を持っておるのか
41:12というような
41:14自己の多様性をですね
41:16なんとか
41:18作り出さなければいけないんじゃないかと
41:22つまり昭和
41:24今さっき明治を言いまして
41:26大正という待ち時間があって昭和になるんですけども
41:30その間に軍人たちは
41:33士官学校出てるだけでは出世しないと
41:36陸軍大学校でなければダメだと
41:38陸軍大学校は南蛮でないと
41:40少々止まりだと
41:42南蛮から上は中将であるいは大将だと
41:45それでその長州人やっつけろとか
41:48長州罰というのはありました
41:50長州人だと陸軍大学校に
41:52あまり良い成績でなくても入れる時代がありましてですね
41:56それを阻止しようという会合があって
41:59陸軍の
42:01ドイツかどこかで
42:03ヨーロッパに行っている武官たちの間で会合が行われて
42:07会の名前がさくら会という会合の名前だと思うんですけど
42:13その中で東條英樹という若い将校もいたわけで
42:16みんな出世、そして異界訓導が上がること
42:22良い大学を出ること
42:25良い成績を取ること
42:28だけどそれらは陸軍の軍人だけの世界でした
42:33今は日本の社会全部がそうです
42:36そういうことで
42:38つまり明治は多様性を踏まえた
42:43多様性というスポンジのジュースを踏まえた一つの海綿体だったわけです
42:48それが干からびてきて
42:50学校教育で社会
42:54明治風の言葉で言うと社会有用の財を出していくわけですけど
42:59やがて学校教育だけが
43:01つまり社会の骨組みになっていく
43:04基本的な骨組みになっていく
43:06そしてそのやがては戦後社会では偏差値だけが
43:10つまり人間の価値判断のもとになっていく
43:14こんなんで大丈夫ですかね
43:16というような
43:17私はもうそんなに長くありませんから
43:20もし若い人が聞いていらっしゃるとしたら
43:23こんなんで大丈夫かなと
43:25皆さんが少し重いになったら
43:27それだけ我々の社会にプラスになるんじゃないでしょうか
43:31ご視聴ありがとうございました

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